浄土真宗について真面目に考察出来る?
「どうして浄土真宗では○○をしてはいけないの?」という素朴な疑問から
批判・要望、各宗派を取り巻く諸問題、教義・教説、堂宇・荘厳、
全国各地の真宗寺院・念仏道場・説教所に至るまで、ありとあらゆる話題を取り扱います。
阿弥陀如来から見ればみな罪悪生死の凡夫。楽しく語らいましょう。
浄土真宗各派の情報交換の場としてもご活用ください。
前スレ
【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン80【御同行】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1396514323/
乙、オレもスレ立てしたことあるけど
第○○弾の書き換え忘れちゃうよねw
自分は釈迦でも聖者でもないよ、疑問や矛盾を指摘して聞いてるだけ
>>1にも反してない
そうですか、失礼しました。
初期仏教を中心にした仏教史の個人研究家の方でしたか。
つい、初期仏教での釈尊遺訓の実践者か信奉者なのかと勘違い
してしまいました。私の思い込みです、失礼しました。
仏教議論スレで真宗教義なんて異端で、仏教全体の議論の中心にもなってないよ
仏教の諸問題はある程度語り尽くされていて、原始経典からの引用で議論されている
それに>>1にも反してない
仏教議論スレ行ってみたけど
今は道元で盛り上がってるようだが
浄土真宗の話題もちらほらと
そっちに行って言いふらして来い
浄土真宗なぞは異端であると
原始仏典以外は仏教ではないと
なるほど、なるほど。
別に「仏教全体の議論の中心」になる必要もない。
それで結果を見れば、原始仏教や上座部仏教は発祥の地インドには既に無い。
大乗が占める日本においてもまだまだごく少数。限定されなぜか広がらない。
なにより貴方は議論などで歴史の真偽正誤を示す仏教史研究家であって
仏教の実践者ではない事は確かです。
●浄土真宗本願寺派<本派・西本願寺 門主:大谷光真>……龍谷山 本願寺 http://www.hongwanji.or.jp/
●真宗大谷派<大派・東本願寺 門首:大谷暢顯> …………………真宗本廟 http://www.tomo-net.or.jp/
■浄土真宗東本願寺派<東本願寺 門主:大谷光見>………本山 東本願寺
■一般財団法人本願寺文化興隆財団<(東山上花山)本願寺 門主:大谷光輪>…東本願寺東山浄苑
■宗教法人本願寺<(嵯峨野)本願寺・大谷本願寺 門主:大谷光道> ……………本山 本願寺
●真宗高田派<法主:常磐井鸞猷> ……………………………高田山 専修寺 http://www.senjuji.or.jp/
■真宗北本願寺派
●真宗佛光寺派<門主:渋谷惠照(笑子)> ……………渋谷(汁谷)山 佛光寺 http://www.bukkoji.or.jp/
●真宗興正派<門主:華園眞暢>………………………………円頓山 興正寺 http://www.koshoji.or.jp/
●真宗木辺派<門主:木邊圓慈>………………………………遍照山 錦織寺 http://www.cable-net.ne.jp/user/kinshokuji/
●真宗出雲路派<管長:藤光永>……………………………出雲路山 毫摂寺 http://www2.ttn.ne.jp/~izumoji-ha/
●真宗誠照寺派<法主:二條秀瑞>……………………………上野山 誠照寺 http://www.jyosyoji.jp/
●真宗三門徒派<門主:平光顕>………………………………鹿苑山 専照寺 http://www.shin.gr.jp/shokai/209.html
●真宗山元派<法主:藤原光教>………………………………山元山 證誠寺 http://www.shin.gr.jp/shokai/210.html
※「真宗教団連合」公式HP http://www.shin.gr.jp/main.html
・念仏者は魂の問題は関与せず、身が滅ぶと瞬時に浄土へ往生する。
・真宗念仏の証得は現生正定聚であるため、現当二世の利益を得る。
・阿弥陀如来は法性法身であり、方便法身。真理でありつつ、私達に働きかけている。
・念仏者は既に信心を得たもの未だ得ないものに関わらず真化さまざまの浄土へ往生し、
たとい化土に生まれても必ず報土に進み成仏することが定まっている。
よって死者の冥福のために追善供養を行う必要はない、葬式は参列者が死者を偲ぶのと、
真宗の教えを学ぶ場である。
・法事は供養する場ではなく、生きている人間が真宗の教えを学ぶ場である
・仏壇も先祖の恩徳を思慕する場であり、真宗の教えを学ぶためのもの
・墓も先祖の恩徳を思慕する場
・占い、迷信、オカルトなど外道(仏教と異なる道)を事とする仏教徒を親鸞聖人は哀れんだ
・阿弥陀如来像、親鸞像なども単なる物質であるが、信心への助け、高祖の恩徳を思うよすがとなる。
・報恩講などのお布施は、教団を維持していく必要経費また授業料と考えればよろしい。
>>3
のようなテンプレをまずは先にということは
スレ主は典型的な冷やかしアンチではないね。
もっとわかりやすく説明しろ、って言ったら逃げるし
私は>>3ではありませんが、具体的にどこが分からないのでしょうか?
皆さんで考えるのもよろしいかと思います。
昔スレ立てしてものの数十秒で>>9を貼られたときは軽く戦慄したw
謹んで、阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人、ならびに三世十方の諸仏如来に申し上げます。
本日ここに、有縁の同朋あい集い、第19回全戦争犠牲者追悼法会を厳修いたします。
私たちは、全世界の戦争犠牲者に追悼の念を捧げます。
先の大戦において私たち日本人が行った数々の植民地政策や侵略行為によって、
他国民、特にアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い謝罪をし、それを後世に伝えてまいります。
そして、平和と平等といのちの尊さを何よりも大切にすべき念仏者とその教団が、
教えに背き、浄土の願いを見失い、国策に順応して「聖戦」と意味づけしてしてきた歴史事実を、
慙愧と共に心に刻みます。
今、私たちは同じ過ちを決して繰り返してはなりません。
また、「沖縄」や「福島」に象徴されるように、戦争をあらゆる核によって殺され、傷つけられ、
切り捨てられようとしているあらゆるいのちの声なき声に耳を澄ませ、非核の願いを実現してまいります。
ここに、一切衆生の連帯と共生を願い、非核・非戦の誓いを新たにし、真にいのちの尊厳を問い続ける、
念仏者たらんことを誓います。
釈 幸雄
なにか政治的な匂いがするので
このような表白は避けていただきたい
・人間死んだら終わり。霊魂は存在しない
・当然、あの世もない
・阿弥陀如来は頭の中の理屈上でだけ存在するもの
・葬式は死者の霊のために行うのではない
・葬式は参列者が死者を偲ぶのと、真宗の教えを学ぶ場である
・死後に霊を供養するということも無意味である
・法事も供養する場ではなく、生きている人間が真宗の教えを学ぶ場である
・仏壇も先祖供養するためのものでなく、真宗の教えを学ぶためのもの
・墓も生きている者が死者を偲ぶだけの場である
・占い、迷信、オカルトなど科学的証明ができないものを信じる者は馬鹿である
・よって、聖徳太子の夢のお告げを信じた親鸞は馬鹿である
・阿弥陀如来像、親鸞像なども単なる物質であるので、これに対して祈りを捧げるのも馬鹿である
・報恩講などのお布施は、親鸞はもう存在しないし、阿弥陀如来は架空のものなので、
現在の僧侶に対するお礼として納めるべきもの
大体アンチの正体わかってるけどさ・・・ こうであって欲しいの?
・念仏者は魂の問題は関与せず、身が滅ぶと瞬時に浄土へ往生する。
では、これから
↓
>魂の問題は関与せず
経説にアナートマン(非我)と説かれているからです
また釈尊は霊我、魂があるかという問いに答えられませんでした
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0099_,02,0245&key=%E7%BA%E6%9C%E6%91
因縁による諸法の生起によって常住論と断滅論を排するので、死んだら終わりなのではありません。来世はある、と説かれます。
(cf龍樹.『因縁心論』。上記のURLの雑阿含経も同様の立場です)
>身が滅ぶと瞬時に浄土へ往生する。
浄土が三部経に説かれているからです。
阿弥陀仏の本願によって念仏者は極楽世界に生じる、と説かれています。
これが浄土教のおしえです
「いや、それは間違っている。これが真の浄土の教えだ」という反論があるのなら
しっかり経論疏に拠ってから自説を述べてください
来世はある、とは説いてない、あると言ったら、それこそ常住論
常住論も断滅論も、有に対する見解も、無に対する見解も捨て去る(龍樹「非有非無」)
そして来世の願望は煩悩、天生思想は方便だからね
>来世はある、とは説いてない
世尊、諸比丘に告げたまはく、邪有り、正有り…
何等を正見と爲すか。
[布]施有りと説く…善行有り、惡行有り、善惡行の果報有り、此世有り、他世(paro loko)有り…を謂う。
>あると言ったら、それこそ常住論
我を立てずに縁起による因果関係だけで輪廻を説明しているのだから常住論にはなりませんよ
なるんなら詳しく説明してください
「念仏者は」と前提があるから、念仏者は関与しないのだろう。
ほとんどは自称・念仏者ばかりだけどね。
「神社に参って無い・お守りを持っていない・加持祈祷に頼っていない」
ことに頼っていないから私は真実の念仏者、とはならないからね。
それは「頼っていない自分に頼っている」という自力作善だけだから。
230 :名無しさん@京都板じゃないよ:2014/05/18(日) 21:54:12.89 語尾wはんw
証拠の要求があったことと一度も証拠出してはらへんの認めはったんでっか?w
笑えますわww
231 :名無しさん@京都板じゃないよ:2014/05/18(日) 22:00:50.30 語尾wはん
【関西カケモチ】生駒山・清荒神・信貴山【最強神仏】9スレで3連投は必死の証ゆうて自分で3連投してはりますやんww
笑えますわw
232 :名無しさん@京都板じゃないよ:2014/05/18(日) 22:05:55.24 語尾wはん
西国三十三所観音霊場巡礼 17巡目スレでは7連投もしてはりますやんww
笑えまんなww
233 :名無しさん@京都板じゃないよ:2014/05/18(日) 22:16:34.45 また逃げてやがるwwwwwwwwwwwwwwww
答えられない時は「連投」とか「バレバレ」で逃げるパターンが確立されてるじゃねえかwwwwwwwwwwww
おっとwww 最近は「おっさんばれとるで」もだったかwwwwwwwww
234 :名無しさん@京都板じゃないよ:2014/05/18(日) 22:19:58.01 IP閲覧お疲れ
そして、4連投お疲れwww
百のものを十につづめ、十のものを一つにして、ようこそ親さまのおおせをお知らせくだされた。
こんなうまいことは、ほんまの念仏者さまでなけりゃ、聞かれぬことじゃ。
、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、
かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、
よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄に
おつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
釈尊の説教虚言なるべからず。
仏説まことにおはしまさば、
善導の御釈虚言したまふべからず。
善導の御釈まことならば、
法然の仰せそらごとならんや。
法然の仰せまことならば、
親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。
それは一切の見解からの出離という「空性」の境地であって、凡夫が言ってもただの空念仏でっせ
世俗諦においては、龍樹大士も輪廻をはっきりと説いていることは
梵蔵漢の原典によってはっきり示されてます
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/28.html
詭弁論みたいに言われる『中論』ですら、素直に読めば輪廻を説いていることは明白なんですけど
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/27.html
それはその通り
生存への厭離の確立が解脱
>天生思想は方便だからね
それは近代合理主義におもねった後付けの解釈学ですね
証拠の要求があったことと一度も証拠出してはらへんの認めはったんでっか?w
笑えますわww
231 :名無しさん@京都板じゃないよ:2014/05/18(日) 22:00:50.30 語尾wはん
【関西カケモチ】生駒山・清荒神・信貴山【最強神仏】9スレで3連投は必死の証ゆうて自分で3連投してはりますやんww
笑えますわw
232 :名無しさん@京都板じゃないよ:2014/05/18(日) 22:05:55.24 語尾wはん
西国三十三所観音霊場巡礼 17巡目スレでは7連投もしてはりますやんww
笑えまんなww
233 :名無しさん@京都板じゃないよ:2014/05/18(日) 22:16:34.45 また逃げてやがるwwwwwwwwwwwwwwww
答えられない時は「連投」とか「バレバレ」で逃げるパターンが確立されてるじゃねえかwwwwwwwwwwww
おっとwww 最近は「おっさんばれとるで」もだったかwwwwwwwww
234 :名無しさん@京都板じゃないよ:2014/05/18(日) 22:19:58.01 IP閲覧お疲れ
そして、4連投お疲れwww
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1400418298/
仏事の時はしっかり称名してる俺って真の念仏者だぜ!」
ってカッコ悪いし、恥ずかしいよ。
まぁ お好きに判断してくだされ
ただし別段、君の判断こそが重要な訳ではないけどね。
まず古代インドに一般に定着信仰していた輪廻思想、その天生思想(来世はある)
仏教と結びつけた方便説法と、行為(業)の縁起による因果関係としての輪廻を混同しない
で下さい 後者は、因縁による現象(来世があるとも、ないとも説いてない)、龍樹「非有非無」
釈尊も形而上学的問題は無記で、測る基準がないから論ずるよすがが存在せずとも
>行為(業)の縁起による因果関係としての輪廻を混同しないで下さい
それご自分で意味分かって語ってます?
「行為の縁起による因果関係としての輪廻」って具体的に何ですか?
>後者は、因縁による現象(来世があるとも、ないとも説いてない)
それは懐疑論のプロ、サンジャヤベーラッティプッタのウナギ論法ですな
で、素人ウナギ論法はすてて、もう少し知的に誠実になりましょう
>釈尊も形而上学的問題は無記で
十無記に凡夫・衆生の来世の有無はありませんけど
>測る基準がないから論ずるよすがが存在せずとも
さて測る基準がないと言われたのは何についてでしょうか?
片言隻句の寄せ集めで「ボキの仏教」を合成するより
もう一度経典を読み直すことをお勧めします
因縁による現象って、あなたの頭ではわからないようですね
例えば、ある人が周りの人たちに与えた影響は、そのままそういった人たちの
集合要素の中に残っている
論法ではなく、間違って混同して解釈しているあなたへの平易な説明です
測る基準がないは、死後です、経典からです
誤ったデータ、またはデータを誤って解釈するあなたに知性がないようです
>因縁による現象って、あなたの頭ではわからないようですね
はあ、その様ですなあ
申し訳ございませぬぅぅ…
>集合要素の中に残っている
他人の記憶や、物理的痕跡として残るという百人が一様にコピペするアホ解釈で御座いますか
仏陀がどの経典でそのような文学的でロマンチックな輪廻論を語られたのでしょうか
>測る基準がないは、死後です、経典からです
「誰が」死後存在するか、しないかでした?経典ちゃんと読みました?
死後存在を尋ねられたのは原語でなんというんでしたっけ?タター・・・?
昼寝しながら屁でもひるみたいに適当な仏教解釈で返されるのも悲しいもんですなあ…
興味深く読ませて頂いております
buddha@ウィキのリンク集は便利ですね
多分「ぼくのかんがえたぶっきょう」の人には一顧にもして
貰えないでしょうが、こんなのもどうかな
石飛道子先生のエッセー
「ブッダは輪廻を説かなかったか 仏教と輪廻(上)」『春秋』12月号、2005年12月
「仏教と輪廻(下) ブッダは輪廻を説かなかったか」『春秋』1月号、2006年1月
「龍樹と輪廻転生」『春秋』5月号、2006年5月
ご紹介ありがとうございます
…といいたいのですが、
当方の仏教理解は石飛先生とbuddha@ウィキの中の人の受け売りみたいなもんなんでw
石飛先生のエッセーは素晴らしいですよね
(というか結論なんか出ないし)、それでもああだこうだ言いながらも
真宗の教えに繋がればまだしも、繋がらないのならここでするような
話でもないよな
それこそ仏教議論スレでやれば良い話
石飛先生(>>36)や森先生(>>48)のところにリンクを貼った俺が言う
のもなんなんだけどさ
あのねえ
石飛先生を絶賛した人間が宮元氏の本読んでないと思う?
>そしてあなたの言う、無我,輪廻説(伝統説)を否定している人なの
へーそーなんだーはじめてしったなー ぼくのいけんとぜんぶおなじじゃないから、このひとのごほんはよまないようにするね!
>あなたが気付いてないもっと書きたいことあるけど
いえいえ書いてもいいではないですか
どうせしょーもない宗門のスキャンダルかブサヨ叩きか米櫃ガーアンチガーになるだけなんだから
>>96
>真宗の教えに繋がればまだしも
来世がないなら真宗の教えも崩れるから、テンプレ議論からわざわざ引っ張ってるわけです
そうだな、真宗は仏教じゃないんだから
ここで仏教の話はナンセンスだよな!
>古代インドに一般に定着信仰していた輪廻思想、その天生思想(来世はある)
>仏教と結びつけた方便説法
仏教以前から外道に輪廻論があったのは事実ですが、
それを長部・梵網経で断滅論他、六十二見と一緒に徹底的に洗いなおして分析しつくした上で
仏陀は輪廻を語ってるんだから、方便説法という解釈はいささか無理がありますなあ
それを言うなら無我説と輪廻転生の矛盾をどう説明するのでしょう
輪廻転生説を前提としていないが、またそれに対して反対するものも含んでいない
業とその果報を容認していたから、それが輪廻転生説と結びついて発展した
(中村元解説)
>それを言うなら無我説と輪廻転生の矛盾をどう説明するのでしょう
無我でかつ五蘊の相続があるから、五蘊の集合をXと仮名することで輪廻が説明できます
アートマンがなくても林檎のタネから銀杏の木が生えたりはしないのです
林檎の木からはちゃんと林檎が生えます
つまり同一性(と方便でいいますが)を問題にして混乱する必要はありません
これも因果論だからです
>輪廻転生説を前提としていないが、またそれに対して反対するものも含んでいない
>業とその果報を容認していたから、それが輪廻転生説と結びついて発展した
>(中村元解説)
で、中村博士は如何なる文献的操作によって御説を証明されたのでしょうか?
六十二見として ○
アンチが静かになるな
しかし龍樹のおっしゃることは難しいなw
半分も理解できないw
林檎のタネからはちゃんと林檎の木が生えます ○
理解しろというのは無理な話だね
なむあみだぶつはそんな平民が簡単に称名できるようにと
いう如来の御心と大慈悲がさらに理解できた
逆に現代は国民階学で文字を読み書きできるようになり、
門徒内外に難解な文章を読み書きできるようになった。
また、僧侶の中にも難解な文章を読め無い者も増えた。
僧侶が一人占めに出来る時代は終わったんですよ。
経典を読んでない人だね
「滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが
存在せず、あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまった
のである」有とも無とも返答はせず、滅びてしまった者には、測る基準がないと説かれている
あと中部経典101も読んでね
龍樹の中論16章に「輪廻は存在しない」と論証してます
世俗諦は、習俗の否定をせず、暫定的に認めてるもので、勝義諦(悟りの世界、第一義の真理)
とは異なるよ
輪廻転生思想は、自我の存在と同様、虚妄にほかならない
自我が実在するから、輪廻転生思想がある という解釈が学者にも多い
中村元解説
「在俗信者に善行を行わせるために、因果応報の理をもって説いた。正しい行いをした在家
の人は、天の世界に生まれる。悪業を行った者は、地獄に堕する。こういう輪廻説、応報説が
無我説と矛盾するが、輪廻および業の観念を排斥せず、むしろ世人の宗教的通念として許容した。
では、なにゆえに許容したのであるかというと、「来世を信じない人は、悪を行う」(Dhp.176)
からである。すなわち、世人に善を行わせるために方便の教えとして説いているのである。」
もしかして思考を超えるとか前スレで書いた人かな?
そこまで書いたのに、思考して論理を引き伸ばそうとするものかね
「滅びてしまった者」とは何でしょうか、
そのちょっと前に
1074 「ウパシ-ヴァよ。たとえば、強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって数えられないように、
そのように聖者(ムニ)は名称と身体から解脱して…」
とありますな。これを読むと「人一般の」死後は語ることができないのだと、読めますか?
(途中でボケてて混同してますた。タターガタは小マールキャ経。)
ちなみに直前のやり取りから聖者(ムニ)とは、
「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人」
に他ならないと分かります
間違っても「輪廻などという無知蒙昧な信仰から解脱した人」のことではありません、よ
中部101とはデーヴァダハ経でよろしおますか?
あとで読みます
具体的にどの偈のことですか?
>世俗諦は、習俗の否定をせず、暫定的に認めてるもので、勝義諦(悟りの世界、第一義の真理)とは異なるよ
世俗諦はクルマを分解する前の世界のことで、勝義諦とはクルマをバラバラに分解した後の世界ですよ
そりゃ輪廻する衆生が成り立たないんだから、勝義においてはXの輪廻は説けません
>輪廻転生思想は、自我の存在と同様、虚妄にほかならない
じゃあ虚妄で人を誑かした仏陀は二枚舌の嘘つきですな
あきらかに輪廻を説いてる箇所はあるでしょ まさか輪廻を説いている箇所=後代の付加 という滅茶苦茶な断定を振りかざしませんよね
>自我が実在するから、輪廻転生思想がある という解釈が学者にも多い
学者に多いだけでしょ。仏教は多数決ですか?
それなら一切の伝統説、諸祖師の説ではそうなってませんけど
>中村元解説
だからこの論の根拠はどういう理路で論証されたんですか?という話ですよ
中村博士が仰るから真実であるのだ、というなら何も言いませんが
だからよく読んでないのかな、>>46に二あるから第一義の真理と書いているし、けど元となった
古層経典にその二諦説を説いてない 真理の説明に言語が必要でも、言語(慣習)が真理とは
説いてない あとあなたの般若心経の解釈も間違いあるけどね、長文になるから書かないけど
学ぶ順番間違えると、先入観や盲信して誤った解釈する人多いよ まず釈尊は何を教えていたのか
学ばないと、そうすれば龍樹の矛盾とも受け取れる二諦も理解できるよ
>古層経典にその二諦説を説いてない
術語がないから説いてないってのはどうだろう?本当に経典の意味を理解してるのか
説明するの面倒くさいからもうしませんけど
とりあえず中論持ち出してさんざん輪廻は方便とかいってた人が
「龍樹さんが釈尊の仏道を(勝手に)哲学化したもので」とかダブスタ極まりないんでどうかなあと思いますね
輪廻なんて虚構をぶった切った龍樹さんは仏陀の教説の忠実な祖述者ではないですか
>真理の説明に言語が必要でも
人とか衆生っていう言語習慣を、それは世俗の視点から見れば、その通りであると認めてるわけで
それも一応、仮の真理なんですが。
習俗の肯定ならマントラの様な呪術、アートマンのような形而上説は否定されてるのはおかしいし
なんで輪廻だけ認めるんですか?輪廻は形而上説じゃないんですかね?
なんか言ってること矛盾してるなあ
>あなたの般若心経の解釈も間違いあるけどね
いや要点だけ書いてくださいよ 勉強したいから
>学ぶ順番間違えると、先入観や盲信して誤った解釈する人多いよ
そうですか。こっちには逆に見えるんで正に顛倒(逆さま)ですね。仏陀は非宗教的、非ドグマ的な教えを説いたという先入観で経典を読んでるようにしかみえない
こういう解釈も先入観バリバリでしょ↓
「その経文が聖者でも他の経文でも、修行者が死後の有、無という想いを持つななの」
(輪廻はそもそも一般常識なんだから凡夫の死後を問うのはおかしいという疑問はスルーされたし)
これマジで根拠はなんなんですか?
>そうすれば龍樹の矛盾とも受け取れる二諦も理解できるよ
龍樹の二諦は矛盾じゃないですよ。視点の違いなだけで
原始仏典の注釈文献や勝義空性経ですでに不生不滅の縁起は説かれていたし
つーかそもそも二諦説は龍樹以前の部派アビダルマから存在してますし
早とちり多いよ、矛盾と断定して書いてなく、あなたが お化けの例を出し、理不尽きわまりないと
書いたから、それを受けたもの
>その通りであると認めてるわけでそれも一応、仮の真理なんですが。
だから暫定的に認められていると書いたわけ、けど釈尊はこれが仮の真理ですなんて説いてない
>これマジで根拠はなんなんですか?
古層経典を読み通してないから、わからないのです Sn.864~867を読んでないでしょ
質問者は、聖者でも死後の行方を聞いているが、釈尊は有とも無とも返答していない
ちなみに来世に対する願望や信仰を捨て去ることが薦められているのは、修行者向けであって
在家信者に対してではない
元々古代インドに定着していた輪廻転生思想、それと関係ない教えならそっぽ向かれる
業とその果報を容認していたから、それが輪廻転生説と結びついて発展した(中村元解説)
不安感や恐怖心を与えていた呪術に関しては、否定し安心感を与えていた
無我(非我)がわかると、 輪廻転生の前提がなくても、苦の救済に繋がる教えとわかる
形而上学的な思惟はある思惟形式に固着するが、まさにそのような思惟形式から解放される
ことが救済への道で、想念(vitakka)からの解放,解脱を釈尊は説いていた(Sn.7)
釈尊が断定して説いた教えは何か、断定して説いたこととは>>94の中部経典63にあり、
龍樹中論25章24にも関連する
中村元「在俗信者に善行を行わせるために、因果応報の理をもって説いた。正しい行いをした
在家の人は、天の世界に生まれる。悪業を行った者は、地獄に堕する。こういう輪廻説応報説が
無我説と矛盾するが、輪廻および業の観念を排斥せず、むしろ世人の宗教的通念として許容した。
では、なにゆえに許容したのであるかというと、「来世を信じない人は、悪を行う」(Dhp.176)
からである。すなわち、世人に善を行わせるために方便の教えとして説いているのである。」
般若心経については、長くなるので書かない、そこだけ短く書くと誤解されレスも面倒くさい
>Sn.864~867を読んでないでしょ
なにを言いたいのかわかりませんけど、こうありますよね
「また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何にもとづいて起るのですか?」
「また人が来世に関していだく希望と成就とは、それにもとづいて起る。」
希望と成就とかいてあるんですけど、成就しちゃうんなら(生きることへの)欲望があるかぎり来世が成就してしまうんじゃないんですか?
>来世に対する願望や信仰を捨て去ることが薦められているのは、修行者向けであって
ちょっとまってください
此の世と来世に対する願望を捨てよとは書いてありますけど、「来世に対する信仰を捨てよ」とは書いてないでしょ
>元々古代インドに定着していた輪廻転生思想、それと関係ない教えならそっぽ向かれる
>業とその果報を容認していたから、それが輪廻転生説と結びついて発展した(中村元解説)
中村先生の教学発展説の講義をする文脈がわかりませんが、なにが言いたいんでっか?
もしかして中村説をまったく知らないと思って親切に教えてくれるんですか?
>不安感や恐怖心を与えていた呪術に関しては、否定し安心感を与えていた
じゃあ輪廻も地獄の恐怖心を与えるから否定しましょうよ
Snの「コーカーリヤ」でそれは恐ろしい地獄を説いて思いっきり恐怖を与えてますけど、「善行を行わせるため」なら恐怖を与えても大丈夫なんですかね
>想念(vitakka)からの解放,解脱を釈尊は説いていた
じゃあアートマンや輪廻などの想念を信じず、すべての現象に実体がないと知っている現代人はハナから解脱してますなあ
>(Sn.7)
ウラガスッタからそこだけ抜き出すのは恣意的すぎるでしょ。「蛇の毒がひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制」することでも解脱するんだから
>なにゆえに許容したのであるかというと、「来世を信じない人は、悪を行う」(Dhp.176)からである。
無神論者は悪を行うんですね。アジタ・ケーサカンバリンとその信者たちはさぞかし大悪人だったでしょうな
それと当時は法律もなかったんでしょうかね?すげーなあ
書きたいところだけ短く、今風に書きますと
>すべての現象に実体がないと知っている現代人はハナから解脱してますなあ
その理解であなたが求道者でしたら、ちょっと、おいおいおいですよ
私は~、私の~、、仮構された自己に気付かず、思考こそ自分とアイデンティティを求め、
地位、評価、信念体系、、という外的のものに思考がしがみつき自己意識を強化させ、過去未来の
心理的時間に囚われ、満たされない思い非充足の穴埋め、思惟差別、不満、怒り、恐れで
生きている現代人がほとんどです vitakkaの範囲は広いですよ では、どうすればいいのでしょう
それが仏道の実践ではないですか
>そこだけ短く書くと誤解されレスも面倒くさい
般若心経に限らないですけど、こっちも段々めんどくさくなってきたんでレスは無視してもらっても結構ですよ
こっちは取りあえず矛盾を指摘して潰したいだけなんで
ツッコミ遊びみたいなもんです
違います
「無我」についての論考として、こんなのもあるよ
ネット上で多くの論文が参照出来る、良い時代になったもんだなぁ
森 章司「死後・輪廻はあるか—「無記」「十二縁起」「無我」の再考—」
(『東洋学論叢』第30号 東洋大学文学部 2005年3月)
http://www.sakya-muni.jp/fieldwork/3-1212/
私も「思考を超えるとか前スレで書いた人」ではないですけどね
———————————————————————————
果たして仏教が輪廻や死後の世界を説くのは、通俗説であって第一義ではなかったのであろうか。
そこで上記の「無記」説・「十二縁起」説・「無我」説を、輪廻や死後があるかないかという視点から再考してみたい。
もっとも以下の論考は現在我々が持っている、原始仏教聖典と称されるパーリのニカーヤやヴィナヤ、
あるいは阿含経や律を材料とするものであって、
これらが少なくとも原始仏教と呼ばれる仏教の教えを示していると理解して行うものである。
しかしながらこれらは後世のものであって、釈尊の教えを含んでいない、これらは仏教ではない、
本当の仏教はこの外にあるというような聖典観があるとするなら、以下の論述は意味をなさないかも知れない。
しかしもしそのような聖典観をもって仏教を語るとするならば、その人が「仏」でないかぎり、
その人独自の人生観・世界観を表白したものとみなさなければならないであろう。
——————————————————————————–
おかしなところ指摘したいけど、長文になるのでやめとく、多くの学者と解釈違うし
↓これに対抗したつもりなんだろ
釈迦入滅→原始経典→…
→浄土三部経(1-2世紀の創作作品、編纂者不明)
アミターバ、アミターユス、仏教以外の古代ペルシャの神を流用習合
創作仏,阿弥陀仏は原始経典に出てきません
摩訶止観(定と念)、念は念仏でなく正しくはサティの観行瞑想であった
「大乗仏典は、新しい仏教徒が、あふれる信仰心を炸裂させて創作した
宗教的文芸作品」(中村元先生:仏教学最高権威、勲一等瑞宝章等受賞)
同様に指摘する学者も、他多数いらっしゃいます
その引用部分に至るまでの「仏教の説く輪廻や死後は単なる
俗説で、それは真の仏教の教えではないとする」先学の論説と、
それらに対する著者の反論を読んで貰いたくて>>48のリンク先を
提示したんだけどな
「無記」「無我」「輪廻」については今も昔も様々な議論がある
ということをね
>「無記」「無我」「輪廻」については今も昔も様々な議論があるということをね
はあそうだったんですか
老婆心痛み入りますが、百家争鳴であるという事実の確認で思考停止するのではなく、
まず森章司先生の論証に理があるかないかの検討もよろしくお願いします
「ふ~ん、ああ君はそういう意見なのね」「そういう意見もあるよね」では学術的な進歩もなにもありませんから
いつまでたっても「中村元先生が~」を繰り返すよりは
いろいろな学説があることを知ることの方が前向きだよ
聞いてすぐわかるくらいなら世の中覚者だらけだよ。
分からないから世俗の常識をワンクッションに置かざるを得ないんだろ。
基準の異なる相手にいかに解からせるか、ということだよ。
一方的な自己主張じゃこういう課題が出て来ないよ。
世俗諦と第一義諦の区別も理解してないな
これは自分で言うのもなんですが
当方が「片言隻句の寄せ集めで「ボキの仏教」を合成する」と指摘したことの典型例ですな
前後の文脈読まずにその偈だけ持ち出して無記風・断滅論が一丁あがりという感じで。
スッタ全体をちゃんと読めば(あらゆる欲望に対する貪りを離れ…解脱した)聖者(ムニ)は、
死んだ後はどうなるか、という話であって
「人が死んだらどうなるのかは分からない」という一般論ではないことは明らかなのだけれど
それを断滅論と曲解しているのはお前だよ
死後の行方に関して、(修行者が)有、無という想いを持つなって教えぐらいわかるだろ
有とも無とも返答せずと書いてあるのよく読めよ
>>龍樹の中論16章に「輪廻は存在しない」と論証してます
>具体的にどの偈のことですか?
ググれば出てくるよ
>だからこの論の根拠はどういう理路で論証されたんですか?という話ですよ
お前が勉強不足だからわからないんだよ、なら学者の解説本でも読みな
素人が主観で解釈してたらわからないだろ
>それを断滅論と曲解しているのはお前だよ
あなたの解釈が断滅論的だってことを指摘しただけだよ
>死後の行方に関して、(修行者が)有、無という想いを持つなって教えぐらいわかるだろ
十難無記と同じ構造で、問われているのは解脱者の死後存在の有無なのですが、そこは読み取れまへんか
タターガタもムニも凡夫も死後には等しく
「名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられな」くなるなら
修行もいらないし、お念仏も要りませんな
>ググれば出てくるよ
じゃあ総論として言いますけど、「観縛解品」は勝義の立場から輪廻を否定したものですよ
クルマを分解すると、そこには「クルマ」はなく、「クルマが走る」ということが成り立たなくなる
1-25章までは凡そそういう立場です
勝義としては見いだされないけど、言語習慣としてはあります
般若心経で空性から無色無受想行識と説かれていても(勝義諦)
言語習慣としては明らかに色受想行識はあると説かれています(世俗諦)
これを輪廻が二諦に渡って否定されたと読むのは誤解です
そうでないと、26章「観十二因縁品」からは突然、仮設として輪廻のは明らかに不自然ですから
「お化けなんてないよ」と言ったあとに「お化けというのはこんな怖い顔でね…」と語りだすようなもので
理不尽きわまりないことになる
質問者は、死後も永久不滅なのか聞いていることまだわからないかな
そしてその経文が聖者でも他の経文でも、修行者が死後の有、無という想いを持つななの
仏教は真理悟りの教えだから、勝義の立場で輪廻を否定しているのであれば、
それが真理であって、世俗諦は、習俗の否定をせず暫定的に認めてるだけです
>>87
飛躍ではないでしょ、中部経典63を読んでないでしょ
「~、わたくしは何を断定して説いたのであるのか。「これは苦しみである。」「これは苦しみの起こる
原因である。」「これは苦しみの消滅である。」「これは 苦しみの消滅に導く道である。」ということを、
わたくしは断定して説いたのである。何故にわたくしはこのことを断定して説いたのであるか。
これは目的にかない、清らかな修行の基礎となり、世俗的なものを厭い離れること、欲情から
離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためになるもの
である。それ故にわたくしはこれを断定して説いたのである。」
関連する龍樹の中論25章も読め
>質問者は、死後も永久不滅なのか
そもそも当時の一般常識として輪廻思想があるのになんで凡夫の死後なんて話題にせにゃならんのですか
輪廻は当時の習俗でーと仰る人がそこをスルーする時点でおかしいでしょ
>仏教は真理悟りの教えだから、勝義の立場で輪廻を否定しているのであれば
世俗諦もサッティヤ・真理なんですが
>世俗諦は、習俗の否定をせず暫定的に認めてるだけです
世俗諦によらねば勝義諦を説けない、と龍樹菩薩も仰ってるではないですか、あなたの大好きな中論で
迷信・習俗を説かないと真理の世界を説けないのですか?
>お前が勉強不足だからわからないんだよ
いいえ、違いますね
単に経典の新古層分類による消去法から、「仏教に特定の教義はない」という結論に飛躍しただけでしょう
論証にもなってないし、現に弟子筋の学者に批判されています
https://web.archive.org/web/20061211064256/http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/hon/daihon.html
あなたがその宮元啓一氏の本を読んでないのがわかりますよ
まずそこは、中村説は貧相となります、と根本を知らない自我思考の感想ですから
宮元氏は、ウパニシャッドと同様、アートマン実在説(有我論)なんだよね
そしてあなたの言う、無我,輪廻説(伝統説)を否定している人なの
自我が実在するから、輪廻転生思想があるという結論を出している人なの
結局あなたは、つまみ食いだけの勉強不足ではないですか
あなたが気付いてないもっと書きたいことあるけど、スレチ長文になるので書きません
そうだよな。中村元先生の学説を拠り所にしたところで真理
には至らないよな
「原点仏教の人」はそれがわからないから、「中村先生が~」
と繰り返すんだよな
ずいぶんご立派なことを仰るw
生真面目な学者が真摯に研究した論文に、
寝ころがりながら解説書をつまみ食いした程度の覚者気取りが上から目線で説教するのも2chらしいな
お互い様ですね!
勝手に目的語を取らないでおくれやす
「滅びてしまった者には、測る基準がないと説かれている」
の誤読はそのままスルーする感じですか?
どうでもよくなってきたのでアレですけど一応聞いときます
世俗の内容が権威化・真理化され、後世の人間が話の内容を一言一句そのまま真理と捉えてしまったんでしょ?
知らんがな
なんで君はそんなこと知ってるのよ
>覚者が世俗のレベルで説いた内容が文字となり、経典になってしまった
これなんか妄想も良い所だろ
なんの文献学的根拠もないし
如是我聞
目の前にブッダがいて答え合わせをしたわけでもないんでしょう?
門徒にしてみると、ちっともわからないし
ありがたさを感じない
これがあなたたちの薦める仏教というもの?
だから一体なんなのさ?という言葉しか出てこない
難しいことを語りたい人は語れば良い
しかし難しいことを考えたり行うことが往生浄土の正定業に
なる訳ではないと捉えるのが法然以降の浄土教
そしてここは2chなんだ、ここにいるのが真宗関係者である
とは限らないんだな
単なる負けず嫌いの人もたくさんいると思うよ
これより難しいことは他にない。
そうであるからわたしはこのように仏と成って、さまざまなさとりへの道を示し、
ついにこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである
仏説無量寿教より
やがて将来私が示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、
わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。
そしてこの教えに出遭うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう。
仏説無量寿経より
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
親鸞聖人のお勧めのままに
法然上人の仰せのままに
念仏するだけです。
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
また、仏がたの教えを聞くことも難しい。菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。
ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。
そうであるから、わたしはこのように仏となリ、さまざまなさとりへの道を示し、ついにこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。そなたたちは、ただこれを信じて教えのままに修行するがよい 」
>>77は仏説無量寿経ですが
信知と存知の違いに関しては
親鸞をもう少し紐解かなければ理解できない類ではあるが
死ねばわかる
浄土はないかもしれん
すべて無
信じるのが宗教
クリスチャンに天国あるのて聞くと同じ
浄土や人生後の世界は
「無い」という方なら、その思いで覚悟して生き切ればよいと思うし
「有る」という方なら、その思いで覚悟して生き切るべきだと思う。
一番困るのは、未来の事を「その時になってから考えればいい」という
事だと思う。
ただ知るは違う
ま~た小難しいことを。
これだから浄土真宗は・・・。
事実がどうであろうとも、親鸞聖人が歩まれた歳月とその思いは変わらないし
法然上人も同様に変わらない。お二方の思いに導かれて歩むのみです。
雑行を棄てて本願に帰す
(教行信証)
一向専修のひとは回心といふこと
ただひとたびあるべし
(歎異抄)
これは一念覚知ですか?
それしかなかったなぁと頭が下げる
本願へのうなずきが信知であると
訂正
訂正
だめだもう眠い
おやすみ
「なかむらはじめせんせいが~」スレでもありませんし
真宗の入門書すら読んだことのない人による
「ぼくのかんがえたしんしゅう」スレでもありません
「私にとって真宗とは」スレで
良いと思うんだけどな
私たちのいかなる行いも浄土往生には結びつかないから
家でゴロゴロしていても仏様の他力によって救われる、という教えかな?
あらゆる言語習慣の否定された寂滅の境地を表現する術がないのだけれども
世俗諦を「世俗の習俗・迷信」と誤読してる人になにを言っても無駄か
もちろんそういうこと知ってて、わかってない人に少し刺激的に書いているわけで
というか、龍樹さんが釈尊の仏道を(勝手に)哲学化したもので
古層経典には、世俗諦その言語習慣が真理なんて説いてないから
月を指す指は~ぐらいは知ってるでしょ
暫定的に認めてるって書いてるんだから、別に否定してないわけ、被害妄想かな
ああもういいっすわ
後出しで言い訳する癖のある人にまともにレスしても実りないんで
死んでしまったらどうなるの?
なにか不満を感じると?
俺様はこんなにまじめに学問して修行してるのに往生の正しい業とはならずに
家でゴロゴロしてる奴らが救われるなんて話はどこにあるのかと?
いやじつはね、ゴロゴロしている人でも仏様によって救われるという
嘘のようなホントの話があるんですyo!
まあここだけの話だからな、他言しちゃダメだyo!
2500年前のゴータマの思想を語るのか
現在ただいまの衆生の思想を語るのか
釈尊も過去の後悔とか未来の理想のとらわれて、今を犠牲にして生きるな
とも説いているよ
如来の悟りの真実との剥離が見え隠れしてきましたな
阿弥陀如来の悟りとは一切衆生が念仏一つで救われず、彼らを漏らすようなことがあれば
悟りは開けない
という悟り
ひたすら阿弥陀如来の本願を謗法する毎日
悔いる心など一切なし
どうして家でゴロゴロしている門徒衆が救われようぞ!
現に川崎大師では10年一度だけ南無阿弥陀仏というお札が配られる。
真言宗すら浄土宗に頭を下げるのだ。
カキコはしてなくてたまに見てるだけだがやっぱりそうなのか・・
お寺って怖ぇ
あてずっぽうで聞いてみたらやっぱり>>125は訪れていたのか。
このスレに書きこむくらいだから小池龍之介スレでも書きこんでるんだろうな。
>>125って怖ぇ
そりゃ見てないと聞きにこねえだろw
あてずっぽうとか嘘はよくねえよ
いいから寝ろ。
小池スレ見たが、無知の批判が多いよな
瞑想に何の意味があるのとか、呼吸法だけとかも違うし、全か無か二分法思考批判なんだよね
精神年齢が幼稚なんじゃないの?
なら真宗僧侶確定じゃん。
たぶん勘違いしていると思う。
さらにその裏切り者が、本を出せば売れるし、信者も増やしてる
しかし、真宗僧侶は信者を一人も増やせない
激しい嫉妬の対象になるわな
さまざまな新興宗教やオウムなどに入ってく人もいるからな
人それぞれということで
【哲学】-【原始仏教】スッタニパータ【最古の仏典】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1294074608/
【心と宗教】-仏教議論スレッド100
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1400526297/
【心と宗教】-【根本仏教】中観仏教について語ろう【龍樹】
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1254216400/
【心と宗教】-こんにちわ。仏教素人の女子高生です。(´・ω・`)ノ
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1318231119/
主張したのは原始仏教とやらで、真宗とはまったくかけ離れている。
が、信者は獲得している
真宗本派はというと、門徒は増えるどころか減る一方
親鸞をかじったオッサンは定期的に出てくるけど、
そいつらは宗派に金を落とさないw
宗教法人の歳入として計上せず、住職の所得として申告して
いなければ、宗教法人の歳入からの横領。
賽銭も宗教法人における宗教活動によって発生した歳入だから。
普通は宗教法人の歳入として計上した上で、宗教法人の維持の
ための物品をを購入すれば必要経費として計上するし、
住職の個人的な消費に使ったら住職個人の所得として計上する。
寺の他に会社を経営していたら、それくらいわかるはずど・・・
ごめんなさい
まあ、課税スレからの誤爆だって分かっていたし
気にするほどでもないよ
スレを荒らすな
釈尊や有名な宗祖の名前をつかって、もっともらしい言説で
ミスリードし、自我を捨てさせてマインドコントロールの餌食にする
そもそも自我は他人によって捨てさせられ得るものではない
無我状態にある覚者の、相手の機根に応じた対機説法の導きによって
おのずと無我にいざなわれていくものだ
自我を敵視蔑視していては修行にならない、なぜなら
釈尊の説いた法灯明、自灯明の「自」を整えるのが修行のはずだからだ
そもそも自説にこだわり、人の話を全く聞かず、スクリプトのような反論が
目的化としているような者は、偽者と告白しているようなもの
その執着まみれの言説でいままでにどれほどの人を導けたというのか
釈尊の教えを実践していない者の語る仏道はむなしいだけ、真似したくないね
誰と話しているのかわかんないから、なるべくアンカーうってね!
この板に常駐して同じ事を繰り返しか書き込んでる人あてのレスです
読み手の側であの人のことかと、自由に思ってもらって構いません
その人とは議論、話ができませんのでアンカーは付けませんでした
頭大丈夫?曲解だけで、あんたが親鸞会カルトってよくわかるよ 前スレでこっちが
使ってた原始経典の自灯明法灯明の誤って引用するとは どこに他人なんて書いてある
「自分自身を救いのよりどころとし、釈尊の教え真理=法を救いのよりどころとせよ。
他のものを救いのよりどころとしてはならない。」大パリニッバーナ経
(五蘊)無我もわからず、誤って自己否定と勝手に我執の頭で短絡思考して勉強不足もほどが
ある そしてダンマパダ103も読みなよ
>無我状態にある覚者の、相手の機根に応じた対機説法の導きによって
急にオウムのグル思想か、誰がどう無我覚者と判断する 教祖絶対視のカルトめ
153であぶり出された君は、自分自身がカルトと認めた訳だ
いいかい、君はね、ひと様が自灯明で自らの拠り所としている様を
君の独善的な釈尊の教えの解釈を押し付けて回って邪魔してるの
君の言説を丸呑みすることは自灯明にならないんだよ、わかる?
人様が何を事実であると考えるかは君が決めることではないの
君は自分の我執(エゴ)の匂いに体臭のごとくに気づいていない
君のそのおしつけがましい、人さまを啓蒙しているつもりの言説で
一体何人が「あぁそうか、自分が間違っていた」と言わさしめたのかね
皆無だろう、ゼロだろう、当然だ、君には知識があっても
智慧も慈悲もない、そもそも仏道者でもないただの無神論者の亜種だ
人の信じてる事を引きはがし、君のプライドを満たして喜んでいるだけだ
ひと様に上から目線で説教するまえに、一度まじまじと
自分の匂い(エゴ=我執)を嗅いでみたらどうかね
そのように被害妄想するのが我執のあなたです 別にこれは中村元先生のみならず
仏教学会受賞の学者先生とか、いろいろな仏教本を読み、古層経典を学べば誰でも
わかることです 私の考えた仏教という自説ではないよ
地球は球形と指摘したり、財布が落ちたことを指摘して、その人に被害にあったと思うのが
被害妄想です エゴだと思うのなら、エゴに反応しないのが覚者です
自分は神道、キリストにも詳しくカルトにも対峙してます
過去のスレで、たまたまおかしな解釈見つけて、おかしなレスが返ってきて書くようになった
だけです それが釈尊の教えを貶める内容でしたので
>>157
>(五蘊)無我もわからず、誤って自己否定と勝手に我執の頭で短絡思考して
いやご尤も
五蘊無我だけど世俗では自己を否定しているわけではないですよ
>急にオウムのグル思想か
これはグルなのか 仏陀のことかと勝手に思ったけど
>>160
>地球は球形と指摘したり
まあ輪廻なんて本当にあるかどうかは死ななきゃ分かりませんけど、経典解釈で仏陀が輪廻を否定したかどうかの話なんで
>エゴに反応しないのが覚者です
我ありという錯覚がなくなったのが覚者(悟りを開いた人)でしょうね
こりゃどうも、?の質問、面倒ならスルーしていいってことで略してます
>>159
追記すると、相手に見つけるエゴは、あなたにも同じエゴがあるか、あなたのエゴの投影ですので
ユング知ってますよね
相手に見えるものは自身にも同じものがあるって言う事は知ってます
しかしその事は>>159の書き込み意図に矛盾するものではありません
ちなみに自分は覚者なんかではないので、あしからず
153ですが、無我をめざせと「称して」自己否定や自己攻撃に向かわせるのはカルト
そう書きました、無我を修行目標とする事と自己否定は当然異なることと存じてます
いつものように>>157が「勝手に我執の頭で短絡思考」して反論しただけですね
>これはグルなのか 仏陀のことかと勝手に思ったけど
仰る通りです、ブッダを念頭に書きました
どっからオウムがでてきたんだか理解不能です>>157の妄想癖がでたんでしょう
>無我をめざせと「称して」自己否定や自己攻撃に向かわせるのはカルト
うーん?157さんがそうしてたんですか?
お、対機説法とあるからやっぱり仏陀でよかったんですね
私には貴方が親鸞会とかオウムには見えないけど、なぜそのように誤解されてしまうんでしょう
このスレの過去に何か揉め事があったんですかね
このスレを含むこの板でかなりのスレで書き込みしてるけど
自分がカルトと誤解されたのは初めてです
>>157が勝手に妄想しているだけなのではないでしょうか
ところでカルトは不可能なことを信者に課して
罪悪感、無力感、劣等感を植え付けマインドコントロールします
その手法の延長線上で健全な自我の反応を
無我への道と称し罰したり抑圧したりして自己破壊を試みます
この板にも同様のミスリードが散見されたのでコメントしましたら
>>157が心当たりがあるのかそのコメントに反応しました
それがここでのやりとりの経緯で、揉め事とかではないと思ってます
そうですか・・・
ただ157氏とレスのやりとりをしてもカルト性や自我を否定されたとは全く感じませんでした、私は
お互いが存在しない敵と戦っているのではないですか?
>お互いが存在しない敵と戦っているのではないですか?
さあどうでしょう、そうかもしれないし、そうでないかもしれないww
いずれにせよ、人間はつきつめると信じることしかできないものです
釈尊が大悟に至った事さえ客観的科学的に証明された訳ではなく
その意味で小乗も大乗も関係なく「信じること」が根底にあります
その信じる力は、その人の性格、育った環境などにより強弱があって
しかも成長に伴ってちゃんと使えるように練習しなければならない
信仰というのは、その、人間の生きる力の根本である「信じる力」を養い
うまく健全に使えるように練習するという大事な役割があるともいえる
ゆえにカルトはその信じる力を破壊する、その人が大切に信じている事、
信仰などに対し否定的な情報を対話不能の一方的な形で繰り返し流し込み
疑心暗鬼に陥らせ、無理矢理棄てさせようとする、それは自我破壊の一環です
>>157は覚者でも仏道者でもない、ただ学会や学者の権威を妄信し
その権威を根拠に、対話が成立しない一方的な独善さで繰り返し繰り返し
日本人の信仰に否定的な書き込みをこの板でしている
その様をみて、これはカルトの折伏と同じではないかと感じた訳です
それで>>153を書いたら157が反応したので、あっ、やっぱりと感じた次第
おはよう、自分も君のように何かを信仰して、超越なるものへの信奉者でしたよ
今でも完全に合理主義で生きているわけでもない
現在では、人が神を信じるしくみ、そのしくみが科学者たちによって明らかにされた
有名な生物学者リチャードドーキンスをはじめね
そして人間は、何かを信仰する本能、加えて文化、教育、環境等などから
人には、大なり小なりに神や超自然を信奉する性向があることが発達心理学者によって
明らかにされています
君はまだ若いのか、オウムカルトの事件を覚えてないの?
麻原教祖絶対視、そして信仰信念と違うまた否定する人は間違いと排他的になり、
しまいには敵視し、最後は逸脱した狂気に走った
あなたの信仰信念のしくみも、実はそれに近い 事件を起こしてないだけでね
信仰と完全同一化している人は、否定は自分を否定されたと思うようになるからね
あるカルトから脱した信者は、宗教は恋人としくみは近いものと言ってますね
で、実は釈尊の教えは、前述の科学者に近いような教えをしていた
無我は自己否定ではない、思考,想念と自己を同一化することで煩いを起こすことがわかり、
またよく分析してみると、仮構された自己に気付かない無明であると(真の自己にもとづいてない)
あなたも赤ん坊の時は知識0でしたが、自分以外の外から取り入れた知識で構築して、
それに基づいて思考している
だらだら書いたけど何が言いたいか少しはわかってくれたかな
オウムのトラウマで宗教アレルギー起こし過ぎじゃないのかな
>あなたの信仰信念のしくみも、実はそれに近い 事件を起こしてないだけで
宗教を信じてる人間はみな犯罪者予備軍みたいな論調ですな
>思考,想念と自己を同一化することで煩いを起こすことがわかり、
>(真の自己にもとづいてない)
ん?これって中村元流の「無我じゃなくて非我だ」論と似てない?
真実の自己なんて存在しないでしょ
我、我所ともに幻とみるのが無我論
あははは、(真の自己にもとづいてない)やっぱりそこ突っ込んだか
だからカッコにしたの、その人がわかってないから、分かりやすくするために
あなたはわかる人だからいいの
犯罪予備と決め付けてないよ、その人への説明のためにあえてそう書いたわけだから
>>174
どうぞ自我思考で必死に正当化してください
肝心なところはそこでないし、別に信仰なんてやめろなんて過去一度も書いてないよ
別のageさんじゃないの
え?思考や知識と自己同一化してるのはそっちでしょって話だよ
こちらは最初から知識とか思考なんてものは頼りにならないって諦観してるの
あなたの考えに同調しない者は自我思考をしているっていう
あなたの自己正当化癖こそあなたの自我が引き起こしているように思えるけどね
自我が強い者には独善性と排他性がでてくるがこっちにはそれはないよ
確かあなたは仏道者でも仏教徒でもないといっていたはずだよね
あなたは結局、知識として無我を知っているだけなんじゃないのかな
だから言ってることとやってることがチグハグになるんだろうね
ま、お互い信じたいように信じ、考えたいように考えたらいいんだよ、じぁあね
178をスルーか
自分で墓穴掘って、じぁあねと逃げたらだめだよ
都合がわるいと反論できず、さっさと逃げる
そして都合のわるい原始経典をなかったものとする、すごいエゴだわ
浄土思想という観念的創作、思考,想念で創ったものでなければ、何なの
矛盾しているよな
うーん、あなたはこっちが書いている根本のところを理解していない気がするな
人間は所詮つきつめると信じることしかできないといっているんですよ
あなたが>>171で書いた事ね、これすべてあなたが是と信じている事ですね
すなわち生物学者を信じ、発達心理学を信じ、カルトに関する報道を信じている
>で、実は釈尊の教えは、前述の科学者に近いような教えをしていた
あなた、まるで見てきたように言うが、あなた釈尊に会った事あるの?
あなたがそう信じているだけしょう、原始仏典を信じているだけでしょう
根拠となった学説を信じてるだけでしょう、つまりね、すべては仮説なの
それをそれぞれが選択的に信じているだけのことなんですよ
そのあやうさを知っていれば独善的にも排他的にもなりませんよ
ゆえにわたしはカルト以外のあらゆる信仰、信念を尊重しますし
信仰信念を一つに統一する必要もなければ白黒つけなくてもいいと思ってます
ところがあなたはね、あなたが是と信じているだけのことを
「事実を知っている」と尊大に脳内変換しちゃってるんだよ、
あなたこそ、あなたの知識に自己同一化してそのことに無自覚な無明の中にいるの
事実、あなたの言説に首肯しない者に対してあなたは軽蔑心と敵対心あらわに
排他的対応(対話の成立しないしつこい書き込み)をしているだろう
わたしはあなたのような折伏的対応をした覚えがないよ
つまりね、あなたこそカルトにいきやすい独善性と排他性を宿しており
しかもあなたにその自覚がないという笑えない状況なんだよ、おわかりですか?
時間あったので追記
>人間は所詮つきつめると信じることしかできないといっているんですよ
そう自我で思考したのですね
生物学者、発達心理学、釈尊の教え(無常、無我)
…これらに共通するのは、発見と観察と分析研究にもとづくもの
根拠不十分なもの信じる、想念(事実に基づくもの除く)、妄想…自我にもとづくもの
前者がこっちが語っていること、後者があなたが語っていること
親鸞会みたいなカルトは近代教学の鬼子でしょ
自説に拘る偽者というの耳の痛い指摘はごもっともでございます
親鸞会みたいなカルト
というが、蓮如時代はカルトだったのでは?
彼らが本流を継いでいる、という見方も出来る
現象としての理屈は、肉体の死滅後に魂が浄土という空間に移動するというのは
教義では説明していることは間違いないよな。
空間って何?
移動するって何?
衆生が
浄土に
往生する
教義ではこんな感じだよな
わざわざ別の言葉を使おうとして
かえって意味がとれなくっている
だけなのでは?
バカが必死なだけ
君のような煽りが一番生産性がないよ
あからさまに必死だしな、もっとましな事書いてみなよ
◎以下これ以外にまだまだ創価員の犯罪多数あり、書類送検されていないだけであなたの街でも多数すさまじい事件の数が
発生しましたし、まだまだ毎日のように創価員による凶悪事件は発生しているのです!
しかもこれ以外にもTVでも報道された凶悪事件多数あり!。あなたの周りにも潜んでいる。
危険です。危機的状況です。酒鬼薔薇だけではありません。実にたくさんいるのです
あなたの街でも善良な人間のように取り繕い潜んでいるのです。
●金大根 →(在日)創価学会員の強姦魔 連続児童虐待暴行殺人 6名の女児死亡 破壊的に強姦 (女児を破壊する悪徳カルト)
●李昇一 →(在日) 創価学会員の強姦魔 東京 テレビ「ガキの使い」関係者を名乗り少女140人を破壊的に強姦。破壊的強姦
(少女を破壊する悪徳カルト)
●沈週一 →(在日)創価学会員の強姦魔 鳥取 大阪 和歌山 9人を強姦。悪徳強姦 創価学会員。(悪徳カルト)
●張今朝 →(在日) 創価学会員の強姦魔長野 「一緒に猫を探して」と小学校4年の女児を破壊的に強姦。 創価学会青年部所属。
創価学会員 女子小学生を破壊する悪徳カルト
●ぺ・ソンテ →(在日) 創価学会員の強姦魔横浜 女子小学生14人を強姦。破壊的レイプ魔。女子小学生を破壊する 悪徳カルト
●人身売買の疑い濃厚なペッパーランチ事件 創価員による強姦事件
●宋治悦 →(在日)創価学会員の強姦魔 東京 ナイフで脅し手足を縛り下着で目隠しの上、主婦19人を破壊的に強姦。長岡哲次裁判長は
「まれにみる凶悪な犯行」として求刑通り無期懲役を言い渡した。被害女性たちは「口封じにひどい(強姦の最中の裸の)
写真を撮る。強姦した後も朝まで居座る」人の女房を強姦するとは破壊的 (悪徳カルト)
●有田晴也 →強制ワイセツ 創大法学部卒「聖教新聞」コラムニスト「性犯罪者」(悪徳カルト)
強制ワイセツで捕まった創価学会エリ-ト学者 有田晴也は、人気の無い裏通りの暗がりで、女性を背後から押し倒し、膣の中に指を入れ
たのである。 偶然にも警察官が通りかからなかったら、有田晴也の「路上で強姦まがいの凶行」には「まがい」の文字は無かっただろう。
ただ諸余の業行雑起せしめざれ』(選択本願念仏集)
現代訳
「もっぱら極楽を求めて阿弥陀仏を礼して念じなさい。
ほかの雑行を交える必要はありません」
ヘッドギアの装着は自由です
「礼念するぞ!」ではなく「南無阿弥陀仏」です
親鸞さんのお師匠さんの法然さんは勢至菩薩の生まれ変わりといわれるほど
頭脳明晰で、しかも一切経ともいわれる大蔵経を生涯で5度も通読されるほど
知識量においても圧倒的に優れた方であったと伝えられています
その法然さんがお念仏こそが救いの道であると見定められた事は大変意義深い
思うに、法然上人は結局のところ知識や思考をどれだけこねくりまわしても
迷いが深まるだけで救われないと気づかれたのだと思う
それよりも信じる心を育てた方がよい、それも、果てしなく慈悲深く
いのちの塊そのもののような光を放つ仏の阿弥陀如来様が
われわれ凡夫を決して見限る事なくどこまでも見守りお救い下さるという
ありがたさ、そのありがたさを信じる心を養う事の方が遥かに救いとなる
また、お念仏を無我夢中で唱える事でまさに無我の境地にも近づいていく
これこそ凡夫が釈尊の説かれた境地により近づくための最良の道と
法然上人は直覚され、親鸞さんがそれを受け継がれたと理解しています
小乗大乗にかかわらず、法灯明の法に近づき、一体化し、
その法を体現する道は色々あっていい、阿弥陀さんはその意味でも
本当にありがたい、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏(ありがとう)
一応
過分なるお言葉とお気遣いありがとうございます
南無阿弥陀仏
>>195
優れていることでは救いとならず、また、衆生も救えない
そのもどかしさがお念仏に心定められた機根となったのでしょうね
いえいえ
貴方のような優れた論説は大変勉強になります
私のような凡夫はただ聞かせて頂くばかりですわ
なもあみだぶつ
法然は生涯、出家持戒僧でしたね
私たちとは違って優れた方だったんでしょう。
あなたはさ、あなたの信じたいように信じ考えたらいいんだよ
あなたのその独善的しつこさと排他性があなたの自我思考の証だといってるの
あなたとは最初から話にならないから絡むつもりはなかったんだよ
だからアンカーも最初つけなかったの、あなたの真似をするつもりは
こちらにはないので、これ以上こちらに絡まないでくれる?
わたしの負けでいいし逃げでもいいからさ(笑)
勝ち負けに執着するのも自我だからね、どっちが自我まみれか
自ずとわかると思うんだよ、じぁあね
あっそれと、無常を語りながら学者さんの学説を絶対視するような
頓珍漢な事はやめた方がいいよ、見る人がみたらなんだそりゃって事になるから
そう自我思考したんだろうが
>こちらは最初から知識とか思考なんてものは頼りにならないって諦観してるの
上の件の思考と、浄土思想という観念的創作、思考,想念で創ったもの頼り、矛盾な
178もスルーして逃げて、どっちが独善性なんだよ
坂本龍一
「未来ですか?まあ、あと20年も持たないんじゃないですか、この世界は。あなたが生きている間に、世界は本当にやばいことになると思いますよ」
2014年4月
http://www.peeep.u■s/19eac297
http://www.peeep.u■s/36e51983
http://www.peeep.u■s/fa8b6430
http://www.youtube.com/watch?v=HWgwsV60xUQ
http://www.youtube.com/watch?v=JAA5Uy813xI
下記の犯罪、弾圧行為が敵対政党、宗教、個人に対し行われております。
・被害者の行動に合わせ「物音や騒音を立てる、車やバイク等で通りすぎる、視覚的嫌がらせを行う」
・特定の場所で車が進路を妨害する様に曲がる。幅寄せやフェイントを行う。非常にゆっくり通り過ぎる。何度もすれ違う。
・不注意を装い車やバイク、自転車等で接触事故を起こす。家屋や車へ投石、タイヤの空気を抜く、不法侵入、ゴミの投棄。
・勤務先や外出先で被害者の私生活や会話を仄めかす。すれ違い様に暴言、咳払い、手を頭にのせる、戸を叩く。
・信者が自宅前や特定の場所で待ち伏せ監視。近づくと去って行く。近くに寄ると体操を始める。癖を真似る。
・自宅、知人に嫌がらせ電話。近隣住人に「悪口を言っていた、犯罪を犯した」等と嘘を流布し人間関係を破壊する。
・職場の非信者を冤罪やイジメで追い出し空いた席に信者を座らせる。
・郵便物を盗む。盗聴。器物の位置をずらす。 無線機の違法改造によるテレビ、ラジオ、電話の妨害。
・問い詰めると気のせい、統合失調症、デマ、幻聴と言い出す。他宗教や敵対政党が行っていると思わせる工作を行う。
共通の敵を作り上げ攻撃する事で信者同士の結束強化、洗脳維持、新規信者獲得に利用されています。
上記の様なガスライティング行為に遭う、又は目撃した場合は被害者の会、公的機関までご連絡ください。
告発文の配布も高い効果があります。
動画(一例)
集団ストーカー国会で暴露される
http://www.youtube.com/watch?v=BFWh_jctYgs
息をするように嘘を吐く信者
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8034124
尾行、ストーカーを行う信者を警察に突き出してみた
http://www.youtube.com/watch?v=vpuer6vf7wI
つきまとい
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5356178
民家へ投石
http://www.youtube.com/watch?v=8tDOjHz15TM&feature=PlayList&p=F01214DC69983006&index=0
吸い終わった直後の吸殻を民家へ投入
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=1486778
>人間は所詮つきつめると信じることしかできないといっているんですよ
そう自我思考した
>こちらは最初から知識とか思考なんてものは頼りにならないって諦観してるの
上の件の思考と、浄土思想という観念的創作、思考,想念で創ったもの頼り、矛盾
観察、発見、分析によって根拠十分なもの、光は音より速いことは創作でない
浄土三部経、1-2世紀の創作作品、編纂者不明、原始経典にない阿弥陀仏(創作仏)
それを言ったらお仕舞
空海も真宗も否定よ
大乗仏教の否定につながる
少なくとも私は 仏道を行きます
それが信仰なのかわからん
ただただお念仏を唱えるだけ
南無阿弥陀仏
他力本願で御浄土に
念仏にちょっかい出してるヒマもないだろ
それでいいから念仏してるんだよ
あなたはあなたの信じた道をゆきなさい
あちゃー、またボロが出た、好き嫌いという観念的思考
>思考なんてものは頼りにならないって諦観してるの
また矛盾
>>203
キミ、何がしたいの?
敵対者を論破して自らが正統正義だと示せと、釈迦は言い遺しただね。
ずいぶん、釈迦という人は安っぽい理屈の人だったのだね
それは別人だよ
信仰宗教と恋人を同じにするなら、自己中心的執着、中毒的依存の要素はないのか
イエスさん?
仏の御ちかひにもこころざしのおはしまさぬにて候へば、念仏せさせ
たまふとも、その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべからん。 ~
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
論理と合理で救ってくれなくて結構なの
ご質問があれば、わたくしにアンカーをつけて、LESSをしていただきたい。
最近、娑婆の民が暴れているようですね、ナムナム。
相方のランボー法師はどこに行かれましたか?
そのあやふやなものを信仰する自分は絶対正しいんですね。
あやふやな自分を拝んでいるということですよ。
お経に説かれていることを信じる
それだけです
「中村元先生が~」を絶対に正しいと信じることと
同じですね
学問の世界だと中村元先生の学説ですら批判的に
再検討していくのが研究者の立場だけど、
「~を信じる」という信仰の立場はそれとは違います
中村教信者の人は仏教議論スレに行けば良いと思うの
向こうでいじめられたからこちらに来ているのかな
たまには「中村先生が~」以外の芸も見せて欲しいよ
自分で矛盾書いて、支離滅裂だし
>人間は所詮つきつめると信じることしかできないといっているんですよ
そう自我思考した
>こちらは最初から知識とか思考なんてものは頼りにならないって諦観してるの
上の件の思考と、浄土思想という観念的創作、思考,想念で創ったもの頼り、矛盾
観察、発見、分析によって根拠十分なもの、光は音より速いことは創作でない
浄土三部経、1-2世紀の創作作品、編纂者不明、原始経典にない阿弥陀仏(創作仏)
結局、都合のわるい原始仏教、仏教学権威中村元氏を根拠なく貶めることしか
できないんだな、ものすごいエゴだわ
>>217の矛盾にレスできないで、ごまかして逃げてばっかり
まずは何と何が矛盾するのか指摘して下さい
>>216に対して誤解を生む表現であるとして
>>221において訂正しているし
そして、ここらあたりは私の発言なので何も
コメント出来ません
>人間は所詮つきつめると信じることしかできないといっているんですよ
そう自我思考した
>こちらは最初から知識とか思考なんてものは頼りにならないって諦観してるの
上の件の思考と、浄土思想という観念的創作、思考,想念で創ったもの頼り、矛盾
観察、発見、分析によって根拠十分なもの、光は音より速いことは創作でない
浄土三部経、1-2世紀の創作作品、編纂者不明、原始経典にない阿弥陀仏(創作仏)
またもや訂正
誤
そして、ここらあたりは私の発言なので何も
コメント出来ません
正
そして、ここらあたりは私の発言ではないので
何もコメント出来ません
自分の都合を拝んでいるだけなんですよ。
自分の好きな道を進む
同じ趣味趣向の人が集まる
宗派なんてそんなもの
でも「ぼくのかんがえたげんしぶっきょう」原理主義者や
「なかむらせんせいが~」至上主義者に集われてもなぁ
誤解を生むかもしれないないので、少し訂正
誤
でも「ぼくのかんがえたげんしぶっきょう」原理主義者や
「なかむらせんせいが~」至上主義者に集われてもなぁ
正
でも「ぼくのかんがえたげんしぶっきょう」原理主義者や
「なかむらせんせいが~」至上主義者にこのスレに
来られてもなぁ
集うほどたくさん人が来ているわけじゃなかったし、
別のところ(仏教議論スレ)に集う分には何の問題も
感じません
でもここは真宗スレなんだな
頭のわるい人は、原理をイスラムとくっつけてイメージしてネガティブとして思考する
それは原理が間違いだから問題がおこるわけで、
電車は正しい原理で動く、その原理を変えたら違うものになる、観覧車になるかもな
また同じコピペレベルの質問を投げかけてくる
おまえに必要なのは原始仏教でもない
精神病院だ
209さんの通り馬鹿で下劣なのか、論破という妄想こそ病院行きだよ
中村元以外の学説を何も提示してくれないんだもの
中村元の弟子だって今もなお原始仏教について
探求を続けているというのに・・・
たまには中村元以外の学者の名前も聞いてみたいな
他の学者の名前や論文を提示したレスも上にはあるけど
「中村先生が~」の人は一顧にもしないんだろうなぁ
だから多くの仏教学者が大筋で中村元氏の分析と同様見解だから
NHKに出る佐々木閑、田上太秀、植木雅俊他、姉崎正治、水野弘元、増谷文雄、
大野達之助、宮元啓一、菅野博史、、
宮崎哲弥(僧侶の講師までしてる)、ひろさちや までもが
浄土三部経が後世の創作として認めている、根本仏教から違ったものになったと
高校の世界史を学べば大乗仏教の成立についても
ある程度の知識を得られると思うんだけどなぁ
それでもなお信仰という立場があることも
中村先生以下、その諸先生達が『浄土三部経』は
後世の創作だから、それを信仰する立場は意味がないと
でも言ってるの?
またそれらを信仰することは仏教ではないと言ってるの?
それくらい高校卒業くらい、遅くても十代のうちに折り合いを
つけるものだと思うんだけどなぁ
宮元啓一氏には以下のようなエッセイがあるよ
「本願の力」とか「本願他力」とかいうときのその「力」とは、
万難を乗り越えて守り抜かれて誓いのことばが真実となった、その真実のことばの力ということである。
あくまでも信じないという人には何をいっても仕方のないことだが、
守り抜くことが困難なものであればあるほどその誓いを守り抜く価値があると考える人は、
真実のことばがいかなる大願をも成就する力を持つものだということを信ずる人である。
短い人生を最大限に有意義な人生にしようと切に願う人は、自分のことばに責任を持ち、
誓いや約束を懸命に守り抜こうとするであろう。たとえそれが不可能事であっても、
そして法然上人のようにおのれを愚者と規定したとしても、ともあれ切に願う心が少しでもある人にとって、
極楽世界はその人の人生の延長線上に確かにあるといえるであろう。
「極楽はどのようにして生まれたか」
https://web.archive.org/web/20080726052224/http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/bunnka/gokuraku.html
くらいの提示があればなぁ
結局「ぼくのかんがえたなかむらせんせいのがくせつ」による
「ぼくのかんがえたしんしゅうのきょうぎ」に対する矛盾の指摘に
すぎないんだよなぁ
他のネタ投入しろよ
君の言ってることって著名な○○さんと○○が言ってたから・・・とかばっかりだよw
周りに流されすぎ
それと一番最後にっていう取り方を今すぐに辞めろ。
俺はお前の物じゃない。
しっかり教化しろよ、真宗布教師さんw
NHKに出てる人が言ってたから~!
共通見解だから~!
クソワロタw
だから多くの仏教学者が大筋で中村元氏の分析と同様見解だから
佐々木閑、田上太秀、植木雅俊、姉崎正治、水野弘元、増谷文雄、
大野達之助、宮元啓一、菅野博史、、
宮崎哲弥(僧侶の講師までしてる)、ひろさちや までもが
浄土三部経が後世の創作として認めている、根本仏教から違ったものになったと
アンカーは、このスレにあるから検索で探して簡単だから
そして大乗信仰の平川を出して、再現不可能と分析不足の思考の学説を信じるかな
>>237の圧倒的多数の学者によって、釈尊の本筋の教えを切り取ることは可能としている
迷信、神秘超越性、想念に委ねることでなく、無我を説いていることは否定できない
何度も書くけど、発見、観察に基づくものは別(釈尊の無常、無我)
>>347目覚める手段を進化って何をどう進化させた?、無我がわからず思想防衛しているだけで
目覚めに向かってないではないか
根本仏教が後に創作文芸作品として変化したことは事実でも、
教えと違う反するものが含まれる根拠不十分な思考創作したものが発展進化したものか
内容と主張については反論しない。
・・しかし・・結果はどうですか?現実はどうなっていますか?
また日本の各大乗仏教系の開祖高僧方は、騙され嘘を信じて欺かれて
無念な末路を送ったというのでしょうか?
現実はって何ですか、例えば海外で仏教といえば、上座、禅、チベット仏教で、その
信仰する人は多いです 外国の人も来日して禅宗の門をたたいてます
禅宗はまだ他宗と比べたら釈尊の教えに近い方です
無念な末路でなく、本来仏教は、こういうものですよと指摘しているだけです
後の仏教が、仏教のエッセンスがまったく0とも言ってません 肝心なところに違いがあるのです
単純に云うと貴方は研究家であり、実践者ではないという事です。
更にいうと史実に基づいて正否を断じている訳で、信仰上から語って
いる訳ではないという事です。
369と同じ人ですか、実践も取り入れています
教えを全部実践しているわけではないですが、以前より効果を感じています
>人々が求めるのは史実の正邪ではなく、具体的に示された救い或いは自由です。
ですから、その信仰が杖で本当に救われているのでしたら、それでもいいですよ
ところが本当の教えや方法は、その信仰さえも超えていて、もっと効果のあるものでしたら
そっちの方がいいでしょ、それを知らないのも もったいない話ではないですか
真宗と、親鸞の歩まれた道と、法然の示された道と比べて
どう超えていて
どれほど効果で勝っているのか
示せるかどうかでしょう。
それの具体例があるかどうかもね。
結局は、理屈以上に結果です。
例えば小池龍之介が真宗念仏を離れ、原始経典を分析したり、禅に走り
そして本を出して支持され売れました
戻って真宗念仏しないのは、なぜでしょう
少なくとも仏教とは何かわかり、効果を感じているという例ではないですか
371=374さんじゃありませんよね?いつもの具体性に欠けている
まさか小池氏の話を持ち出してくるとは思わなかった。
彼は純粋な上座部かな? 初期仏教経典を用いていても大乗での禅を
目指された方に見えるのだけれど。
真宗を離れた元念仏僧がいたから、教えの勝劣の根拠になりますなんて
説明では話にはなりませんよ。
聖道を捨て本願に帰す方もいれば、本願を捨て聖道に帰す方もそりゃいる
でしょう。ちなみにかの小池氏は念仏を劣るとされていますか?どう批判
されているのですか?故意に引用されたのだからお分かりでしょう。
あぁ そう言えば・・「現実は」について申しますと
インドではヒンデュ教が勝った結果となった。即ち伝える力が絶対的に
足りなかったのも要因となった。
日本でも上座部の名を聞き見かけるようになってもそれを実践し勧める
力がやはり絶対的に少ない。どうも伝えるという方向性になかなか変化
しないのではと感じます。
人々が求めるのは史実の正邪ではなく、具体的に示された救い或いは自由
です。
>>237の通りだよ
そして上座の解釈も合わせているし、細かい部分に違いはあっても
大筋は皆同じ
代表的な仏教学者の文章をかいつまんでるだけだと
そこらへんのネトウヨのように簡単に論破されるぞ
問題箇所を引用することも大事だね
そして論拠をしめすことも
大乗仏教経典が歴史上の釈迦の実際に語った内容である
と主張する人はいないでしょう
しかし原始仏教経典においても、そこに描かれる釈迦は
「単なる人間釈迦」ではなく、様々な神話的、伝説的要素が
含まれているから
純粋に『人間仏陀』の伝記は、現在としては再現不可能である。
仏陀の事蹟は、すべて神話的に色づけられているからである
平川彰『初期大乗仏教の研究』(春秋社)
神話的、伝説的要素を排除していったところに「人間仏陀」を
見出そうとする考え方もあるけど、色々と難しいんだな
参考
シリーズ大乗仏教5 『仏と浄土 大乗仏教Ⅱ』 春秋社
第一章、第二章
原始仏典にないものを信じたらダメなのですか?
>だから議論スレ追い出されるんだよ 議論になんねーもんな「みんなが言ってる」だと
真宗信者は根拠ないことや勝手な憶測とか好きだよねw
でそれは誰が言ってたの?ん?有名人?
「浄土三部経が後世の創作」なんてことは、高校の世界史
レベルのお話だろ
それでも信仰というものがあるから今も仏教が続いている訳
そこに何の矛盾があるの?
創作と認めないで、かつ原始経典をなかったことにする某sageあてに書いたものだよ
途中から割り込んで高校どうのとか何様なの
>そこに何の矛盾があるの?
超勉強不足,無知、そんな初歩長々と書く時間も暇も今ない、過去のスレにも書いたよ
あんまりにも態度が横柄なんで真剣におまいの方が自我妄想激しすぎじゃねと思ったw
それとも、浄土の教え、本願をを既に感じながら
如来の大船のうえで原始仏典をありがたく学ぶことを趣味とするか?
後者のほうが愉しいぞ
「本願を感じている」人がいたとして、果たしてそれが本当に本願かどうかどうやって確かめるんですか?
それより大好きな著名人の学説の方を確かめたら?
鵜呑みにしちゃってまぁ・・・・
あほか、鵜呑みはそっちだろ
伝統だからとか、中立客観的に分析もできず、ただの盲信だろ
どうせ宗派に都合いい本でしか学んでないだろ
こっちは密教も日蓮も禅宗も、原始仏教から大乗まで学んでいる
仏教史から学べ、そして釈尊が何を教えていたか学べ、この盲信無知
それだけ学んだという知性がまったく感じられないのは気のせいでしょうかね
いやお前は学んでないよ 鵜呑みはいかん 考えろ
んで学んだ結果が独りよがりの荒らし行為?
ぼくのかんがえたぶっきょう?
本気で密教も日蓮も禅宗も、原始仏教から大乗まで学んでいる人に早くあやまれよ
ここは真宗スレだから他宗のことなんて書いてないよ
中村先生はね、親鸞の恣意的な文法間違いも指摘している
真宗学者も認めているが
日蓮の我実成仏巳来無量無辺、禅宗の前後際断、あー原始経典のそこからねとか
真宗の阿弥陀仏ってどっから?、念仏で無我?、いや本来の念は正しくは、…
>>266にあるように成果を見せてくれよ 君自身のことばで
勉強したとは思えんな >>266
やっぱこいつ勉強してねーわ >>266も嘘
あほか、鵜呑みはそっちだろ
伝統だからとか、中立客観的に分析もできず、ただの盲信だろ
どうせ宗派に都合いい本でしか学んでないだろ
こっちは密教も日蓮も禅宗も、原始仏教から大乗まで学んでいる
仏教史から学べ、そして釈尊が何を教えていたか学べ、この盲信無知
楽しみだな
でも他人の家に上がり込んで自分の思い込みを開陳する
のが愉しいとする人もいるかもしれないけど、その家の人に
とっては迷惑な話だよな
君がどんだけ自説を他人に強要したところで
誰も君の自説になびかないという現実
あぼ~ん設定一発なんだけどね
ナムナム
ご質問は~^-^
では~
どなたか、原因ご存知の方、いらっしゃいますか??
低学歴君。書き込みノルマのためかしらんがw
いくら書き込んだところでIDが赤くなることもないし
書き込み回数が表示されるわけがないから
ノルマなんてわからないよな
仏教議論スレは一日のレス数が20とか30とかの人すら
いるので本当にびっくり
ここの「中村先生が~」くんも向こうで活躍すれば良いのに
それとも向こうで相手にされないからこちらに来ているのか
あなたこそ仏教議論スレから出張ですかw
仏教議論スレは、世の中にはいろんな人がいるなぁ
と眺める場所
あそこにレスするのは勇気がいるなあ
みなさん、アクが強くて強くて・・・
それでも論拠をちゃんと提示出来る人もいるから
真宗西本願寺派の葬儀です。
告別式で夫婦の坊さんが出てきたり、
御霊前はだめ、御冥福って言っちゃだめと。
事前に調べておいて良かったけれど、
一般の弔問客や弔電打つ人は知ったこっちゃないよなぁ。
これから2週間に1回の法要に、嫁の実家へ行くのか。正直しんどいな。
これを熟読して、真宗僧侶の指示に従ってください
<現在の浄土真宗の教えまとめ>
・人間死んだら終わり。霊魂は存在しない
・当然、あの世もない
・阿弥陀如来は頭の中の理屈上でだけ存在するもの
・葬式は死者の霊のために行うのではない
・葬式は参列者が死者を偲ぶのと、真宗の教えを学ぶ場である
・死後に霊を供養するということも無意味である
・法事も供養する場ではなく、生きている人間が真宗の教えを学ぶ場である
・仏壇も先祖供養するためのものでなく、真宗の教えを学ぶためのもの
・墓も生きている者が死者を偲ぶだけの場である
・占い、迷信、オカルトなど科学的証明ができないものを信じる者は馬鹿である
・よって、聖徳太子の夢のお告げを信じた親鸞は馬鹿である
・阿弥陀如来像、親鸞像なども単なる物質であるので、これに対して祈りを捧げるのも馬鹿である
・報恩講などのお布施は、親鸞はもう存在しないし、阿弥陀如来は架空のものなので、
現在の僧侶に対するお礼として納めるべきもの
私は私の信じるものがあります
で良いと思いますよ
坊主の言うことも、そんな考え方があるのか
ぐらいで
真宗の教えだって真宗大谷派や浄土真宗本願寺派など
いろいろありますから
2chの名無しが言うことなんて、>>269も含めて
眉に唾を付けて聞いておくぐらいでよろし
>>269
有難うございます。
なかなかモダンな教義なんですなぁ。
告別式の僧侶の説法でも
死後の極楽冥土などない。ただ闇に行くだけだ、と言ってた気がする。
あと、通夜に1回、告別式に2回、勤行させられて辛かったです。
>>271
有難うございます。
嫁の実家は、本願寺新聞を購読するほどの信心をしていますが、
自分は正直、そこまで付き合うつもりは無いです。
教会のミサで歌ったのと同じ気分ですね。
・念仏者は魂の問題は関与せず、身が滅ぶと瞬時に浄土へ往生する。
・真宗念仏の証得は現生正定聚であるため、現当二世の利益を得る。
・阿弥陀如来は法性法身であり、方便法身。真理でありつつ、私達に働きかけている。
・念仏者は既に信心を得たもの未だ得ないものに関わらず真化さまざまの浄土へ往生し、
たとい化土に生まれても必ず報土に進み成仏することが定まっている。
よって死者の冥福のために追善供養を行う必要はない、葬式は参列者が死者を偲ぶのと、
真宗の教えを学ぶ場である。
・法事は供養する場ではなく、生きている人間が真宗の教えを学ぶ場である
・仏壇も先祖の恩徳を思慕する場であり、真宗の教えを学ぶためのもの
・墓も先祖の恩徳を思慕する場
・占い、迷信、オカルトなど外道(仏教と異なる道)を事とする仏教徒を親鸞聖人は哀れんだ
・阿弥陀如来像、親鸞像なども単なる物質であるが、信心への助け、高祖の恩徳を思うよすがとなる。
・報恩講などのお布施は、教団を維持していく必要経費また授業料と考えればよろしい。
こちらを参考にするといいよ
>>269のコピペは真宗の僧侶が作成したものではなく
アンチの妄想でしつこくコピペしてるだけなので
惑わされないように
>・念仏者は魂の問題は関与せず、身が滅ぶと瞬時に浄土へ往生する。
「浄土に往生する」とはどういうことなのか、仮に「文字通り『浄土という場所に往って生きる』こと」とすると何が浄土に行くのか(魂ではないとして、何かが行くんじゃないか)。
この2点が疑問として残るんだよな。
「往生すること」については、時代、場所、人によって様々な議論が
なされてきましたが、あくまでも仏教用語であり、自然科学の見方や
物理法則を適用して表そうとしても無理があります
たとえば原始仏教経典の中には、人間を五蘊の集まりであると言ったり、
仏は法であるというよな表現があるように、あくまでも仏教内での表現
となります
2chの名無しの個人的見解ですが、
往生するとは、娑婆世界(穢土)における人間の在り方(五蘊の集まり)が
仏の世界(浄土)における人間の在り方(五蘊の集まり)に変わることを
「往生」と表すのだと理解しています
そしてそこでは物理法則で説明出来る空間や物体の移動は意味を
なさず、あくまでも仏教の考え方の範疇にあります
論書を引くならば曇鸞でしょうか
わかりやすく、一言で言ってみて
今死にそうな年寄りに、そんな理屈をうだうだ言ってもわからんだろう?
それでは一言で申し上げましょう
南無阿弥陀仏
これなら今死にそうなお年寄りでもわかるね
本来、難しい理屈をこねる必要なんてなくて
お念仏申して往生いたしましょう
というのが浄土の教えだから
ありがたいことじゃのう。
百のものを十につづめ、十のものを一つにして、ようこそ親さまのおおせを
お知らせくだされた。
こんなうまいことは、善知識さまでなけりゃ、聞かれぬことじゃ。
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
差支えなし 注文なし
お差支えなし ご注文なし
坊主の仕事は、死んだ年寄りにお経を聞かせることだろ?
上の続き
問曰。依何義説往生。答曰。於此間假名人中修五念門。前念與後念作因。
穢土假名人淨土假名人不得決定一。不得決定異。前心後心亦復如是。
何以故。若一則無因果。若異則非相 画像續。是義觀一異門。論中委曲。
『往生論註』
問うていう。 どういう意義によって往生を説くのであるか。答えていう。
この世にある人が五念門を修める場合、 その人の修める前念の心は
後念の心のために因となる。の迷いの世界の人と浄土の人とは、 きまって
一ともいわれず、 きまって異ともいわれない。 前心と後心との関係もまた
このとおりである。 なぜかといえば、 もし同一なら因果の別がないことになり、
また異なるものとすれば同一のものの相続でないことになる。 この義は
一異を観ずるところの門の中にくわしい。
これは刹那滅の考え方を念頭に置くと捉えやすいかも
自然科学や物理法則といった見方とは異なりますけどね
ネットで検索すれば「往生」に対する様々な見解があることがわかると
思いますし、碩学の著作を読めばさらに知見が深まるでしょう
2chの名無しに聞くよりはずっとためになると思います
真宗西本願寺派の葬儀です。
告別式で夫婦の坊さんが出てきたり、
御霊前はだめ、御冥福って言っちゃだめと。
事前に調べておいて良かったけれど、
一般の弔問客や弔電打つ人は知ったこっちゃないよなぁ。
これから2週間に1回の法要に、嫁の実家へ行くのか。正直しんどいな。
せっかく来てくれた他宗の人にケチつけるほど狭量な坊さんなんて珍しいだろ。
今昔物語集の悪人正機説に基づいた説話を原作としています。
成仏できるでしょうか?
よかったら聴いてみてください。
KENJI – Amitabha / 犬司 – 阿弥陀仏
http://youtu.be/thyCRRV2CHs
good
洒落た雑貨屋とかで流れてそう
次は情念込めた感じの南無阿弥陀仏も聴いてみたい
女子学生の全裸やSEX画像が大量流出→大学が調査へ
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1400943917/115
12万部だってね。
幻冬舎だからマーケティングも上手いだろう。
鎖に繋がれて自由に走れないがきちんと飯をもらえるか、
鎖に繋がれず自由に走り回れるが自分で飯を探すか、
小池さんは後者を選んで言論の自由を得たわけだ。
いや、普通に頭がいいからね。
君とは違うよ。
それだと、鎖に繋がれている側は、
頭が悪いとか才能が無いとかやる気が無い、見たいな言い方だな。
キミ、分かっちゃいないね。
小池さんも意外と完全に自由ではなく鎖に繋がれている部分もあるんだよ
それはお前だろうがwwwwwwwwバカスwwwww
君は見事に、鎖に繋がれて自由に走れていないじゃないか。
人の事をとやかく言える立場でもないではないか。
お前もな
全部過去スレにある煽り文句ばかり
ネタ切れ?
念仏が広まりすぎて神社・修行宗派はおろかバチカンまで崩壊しそうだね。
おかげで各国は武器・核の放棄、紛争・戦争は無くなってるしね、さすがだわ。
真宗本山も未来永劫にわたって安泰だわ、門主家も左団扇だわ。
因果の鎖から少しでも逃れたいから念仏したり善事をしようとするんだろうに
飯の量が除々に減ってきてるんじゃないのか?
こういう状況は二つの流れがあるかな、改革派と保守派。
いろいろあっていいんじゃない?傍から眺める側としてはw
そんな事はどうでもよいのだよ
それより各々が三毒と四苦八苦、生死の鎖に繋がれていて自由のならない
事を憂慮すべきなのだが。
今月の聖語
「身をやしない魂をたすけず」
=本当の生き方=
《身を養う》とは、経済や文化的な活動によって、人が生きていく上で必要な
入れ物をつくる作業を指します。
《魂をたすける》とは心の営みのことで、入れ物に内容を注ぎ込み、充実させる
ことです。
豊かなはずの現代社会に、漠然とした不安を感じるのは、この二つのバランス
が崩れているからです。
今、私たちは《身を養う》ことに使うエネルギーに見合うだけの《魂をたすける》
心の営みについて考えなくてはならない時を迎えています。
どこまでもそれから逃れられない罪悪深重のわたくしでありますなと
痛感せしめられるところからスタートしてるのだよ
自力では見えないところでもあるのだよ
. ホルホルホル
* ・ ゜ * 。 i
゜ 。 i.∧_,,,∧ * i ・ >>300、ゲット ニダ~!♪ ウリ は不本意 ッセヨ ~。アイゴ ~ スミダ~♪
* ゜.< “`∀´>。 *。
。 * ( ) 。 i *
.。 i 。し―-J * ・ ゜
幸せ回路作動中
.
あっちょ~っ! ニダ
おまえらの思想は鎖につながれた犬であると揶揄しつづける
我が立ってるのはどちらでしょうか?
カオスだな
グーグル先生ありがとうございます
親鸞さんと日蓮さんの言う事は総て対極する訳ではなく
共通する部位もあると感じますよ。
第三者も参照することが出来て良い感じ
一部部分だけを引用してさらに自己流解釈を加えると
誤解を生み出すどころか全く違う意味にとられることも
あるからね
まっそれは他の宗派でもそうなんだろうけど
(そして説明を求めてくるのに100ドル賭けよう)
無量寿経の四十八願の段十八願文で「わが国に生ぜん」事。
阿弥陀仏の建立された国に阿弥陀仏の設定条件によって生まれること。
・・・と聞いています。
何が浄土に行くのかについては、親鸞と法然が語った言葉と選んだ
説示では明らかにしていない。しかし先発の教えで既に説かれている
事でしょう。説によっては阿頼耶識が往くとも聞きます。
「問曰。依何義説往生。答曰。於此間假名人中修五念門。前念與後念作因。
穢土假名人淨土假名人不得決定一。不得決定異。前心後心亦復如是。
何以故。若一則無因果。若異則非相 画像續。是義觀一異門。論中委曲。」
と、ドヤ顔で言っていたのが目に浮かぶわ。
曇鸞もこれまためずらしいほどのアホだな。
そうだね、ブッダは死にかけの老人に向かって
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、
また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
と言ったのだろうね。
世尊は、死に際の者に言ったんだろうね
心にこだわりが無いこだわりが無いゆえに、恐れも無く
転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。
過去、現在、未来の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに
完全なる悟りを得るのだ。
とね。
曇鸞の中観的な説法は明快でいつ見ても惚れ惚れするねえ
親鸞が善導よりもむしろ曇鸞を重視したのもムベなるかな
わかりやすく、一言で言ってみて
今死にそうな年寄りに、そんな理屈をうだうだ言ってもわからんだろう?
訂正すると若異則非相續な
画像がどこから入ったのか
大正新脩大藏経テキストデーターベースからコピペしたときに
「画像」が入っちゃったみたい
その部分に大正藏経の該当部分の画像が埋め込まれている
ようです
曇鸞の『論註』は色々と勉強になりますよねえ
一人でも見捨てられん 苦しんでるやつほっとけん 必ず必ず救うからなっていってはる阿彌陀さんの仰せの
ままお念仏させていただこうや
なんまんだぶつ なんまんだぶつ なんまんだぶつ
俺ならこう言う。
と全く読んでないのに、知ったかするのが関の山w
買う人少ないかなぁ
ネットで現代語訳も参照出来るけれど、文庫本だと気軽に
持ち歩けるからな
amazonを見ていてびっくり
古書の値段は売り手側の一存だけど・・・
『解読浄土論註』(1955年)[古書] 曇鸞(著),上杉思朗
出品者からお求めいただけます。
中古の出品:2 ¥121,869
もっと掘り下げたいひとは掘り下げてもいい
どっちも願船の中
わざわざ他人にちょっかいを出す必要もないし
一人が寂しいのであれば、道を同じくする人と
一緒に歩めば良い
門徒が神社参りしたりお守りを持っていたら咎めるんでしょう?
だからその好き嫌いが観念的思考だろ
最初から真宗は、思考をあてにしてないと前の方で書いたのは誰なんだ
浄土思想、阿弥陀仏も思考で創られた後世の創作品だろが
思考,想念に囚われた自己でなく、法に則って生きる自己に目覚めさせようとしたのが仏教
寂しいってのは、五蘊の精神作用な
真宗信者は(根拠不十分を)信じることにつきると思考し、相手への勝手な憶測、
念仏で無我を目指すと前の方で言ってたが、ほど遠いだろ
と、「ぼくのかんがえたぶっきょう」を他所様の庭で
垂れ流しているわけですね
思考想念に囚われているなぁ
他人のレスを批判しようとするならば、そのレスに対してちゃんと
アンカーをつけましょうよ
「最初から真宗は、思考をあてにしてない」というレスはどこ?
「念仏で無我を目指す」というのは誰の考え?
「真宗信者は(根拠不十分を)信じる」って、お経に説かれている
ことを信じるから信仰なのでは?
原始仏教経典だって
純粋に『人間仏陀』の伝記は、現在としては再現不可能である。
仏陀の事蹟は、すべて神話的に色づけられているからである
平川彰『初期大乗仏教の研究』(春秋社)
なんだけど・・・
それでも俺は「天上天下唯我独尊」も「梵天勧請」も信じているよ
そして灌仏会で誕生仏に甘茶をかけるよ。そういう信仰だから
大乗仏教の起源を「在家仏教と仏塔信仰」に求めた平川彰の説も
現代では批判的に再考されているんだよな
一つの学説を無批判に受け入れるのは、学問の世界では絶対に
やっちゃいけないこと
でも信仰の立場はそれとは違うんだよね
いろいろな信仰があって良い。そしてここは真宗スレなんだな
止められはしたし、止めるけどね
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ
「人の集まるところで人を殺そうと…」
この事件は特別の事件ではない、何処の家庭でもありうるのだ。
よく加害者の環境云々を云うが、それは単にトリガーに過ぎないのだ。
肉親の霊が憑依し、人格が豹変し、目の玉が釣り上がって人相が厳しくなったら要注意なのだ。
今の日本では、永年培われてきた仏教の供養法が蔑ろにされて、僧侶までもが経済活動に
翻弄されている。
霊界がどんどん腐敗してきて、その影響を子孫が受けやすい状態になってきているのは
憂いられる時代で、警察の精神鑑定では何も結論は出せない、なぜなら憑依している霊が
鑑定中に抜け出せば正常だし、色々な霊が入れ替わり入り込めば多重人格と云う判定になる。
霊供用を疎かにしている家庭が被るリスクは計り知れない事が知られていないのが問題
なのだが、、、、。
どのような人格者も、憑依により別人になることに注意しなくては、霊界のトバッチリを
食うのだが、そう云った時にガードをしてくれるのが信仰で得た仏様の加護、お守り
なのだが、有効なお守りを出す寺社は極端に少ないのが実情だ。
法に則って自己を目覚めさせようとしたのが仏教なら、
その目覚める手段を進化させるのはいかんのですかね。
数学だって幾何、数論的なことから現代数学まで発展してきたわけだし、
仏教においても発展型を考えるのはありだろw
虚数を知らない時代の人が現代数学に文句言っても無視されるだけだろ、
同じように真理に到達する智慧を獲得する手段の多様化を認めない人って
遅れてるね ☆キンモー
ここがそんなに居心地がいいわけ?
自分の家に帰るか
議論スレにいけば?
爆発的に広まったのに、後継者達は屁理屈をこねくりまわして、
誰も信じていない変な教義を作り上げたという現状w
真宗が異端ならどうしてここに来るんだよ
何が言いたい?
何が得たい?
自分の言う事を認めて欲しいのかい?
「異端」と言われる教えを正したいのかい?
これ一言で済むよね?
経典以後の「論・釈」全てがね
一宗派を鵜呑み盲信する主観のお前より、
きちんと仏教全体を分析した その多くの学者の方が信憑性高いだろ
お前に足りないのは、中立客観的でもなく、観察,発見,分析でもなく、盲信無知なだけ
だからこのスレで何がしたいの?
間違いを正したいと思ってる正義の味方か何か?
他力とかお念仏では解決できないんだな。
たぶん否定して欲しいんだよ
そういう深層心理よくあるよ
子供とか思春期に
大学の心理学で習った
ついついここに来てしまう
他所じゃ適当に流されて、そうなんじゃない?くらいの反応かスルーされる反応しか返ってこない
なんとも寂しい虚しいから
否定して欲しい
思春期です
女に関しては、全員俺のメイドになり子作りは出来なくなってしまい、他は貰えないし代行で子作り不可と明記済
本に原始仏典の引用結構あるぞ、上座の勧行瞑想をやっている
ここのスレ人は本当無知ばかりで、鵜呑み盲信無知信者しかいないのか
貴方は=371だと思うで申しますと教理を分析し理解しても
「実践が伴っていない」方だと思うのです。
だから真偽と理論構成の史実研究家か学術研究家であって
その効能を得て効果を発揮する実践者では無いと言いたい
のです。
初期仏典の僅かですが、読んだ事がありますし内容を否定も
しません。
正統が傍流かで言えば初期仏教経典こそ正統でしょう。
しかし正しくとも私を対象にしたものかどうかでは「否」です。
けど結局は学者様()の言ってる事の受け売りなんだな学者鵜呑み盲信無知信者くん?
まぁ勉強する事はいいことだけどね
ちょっと大事なものを見失ってるかなー
知識を頭に詰めるだけなら誰でもできるんだなぁ
盲信して教学を頭に詰めることは誰にでもできるからなぁ
一宗派を鵜呑み盲信する主観のお前より、
きちんと仏教全体を分析した その多くの学者の方が信憑性高いだろ
中立客観的でもなく、観察,発見,分析でもなく、盲信無知なだけ
知識は道具として使えるが、鵜呑みして根拠不十分なもの信じても盲信で使えない
もちろん仏教は知識の集積ではない、実践が伴う
ここID出ないから、もうわかならい、出かけるんでさよなら
『パーリ仏典』片山一良(訳) 大蔵出版、
龍樹の『中論』についてなら
『全訳 チャンドラキールティ 入中論』
瓜生津 隆真、中沢 中 (訳) 起心書房
が話題になったけど、いつまでたっても中村元の
現代語訳と解釈にこだわっている人もいるんだな
でも仏教学における最新の研究成果がどうあれ、
それまで続いてきた信仰の在り方が変化する
訳ではないんだよなぁ
学者様の言うこと鵜呑みにするのってホント楽な道よね
でないと誰が誰やらわかりにくい。匿名でも恥ずかしいか?
信仰や修学の過程で
「自分の知っているもの信じずものがこれほど正しいから、
無知なる世間に知らしめて幸せにしてやらなくては」と
「正しいのだから」と無下に強いたりする時期・方がおり
ますね。
毎度の緑色age原始仏典支持さんは、そんな落とし穴に
嵌っているように見えます。
誤:信じずもの
正:信じるもの
「ず」では意味が否定になりますね。
釈尊の教えと違う反する真宗教義、異端仏教
VS.
きちんと仏教全体を分析した多くの仏教学者の信憑性の高さ
神秘超越性、想念に委ねない釈尊の教え無我
浄土三部経は、後世の習合創作変化の文芸作品
原始仏典にない浄土思想、創作仏阿弥陀仏、思考想念の創作品
釈尊の教えは、観察,発見,分析による想念でない無常、無我の教え
仮に真宗が異端だとしてそれに救われる人がいたならよくないですか?
あなたが原始仏典や中村先生にいまだ救われていないからそういうレスをするのでは?
まず貴方は真宗批判をする前に原始仏教や中村先生の学問を極めるべきでは?
391=384=393でいいのかな?
違うならいつもの便乗煽りだし、同じならそんな事しか言えないような
教えを原始仏教で釈迦が説いたのかと思うのだが。
まぁ確認しようがないがね
最後には仏教学者の成果が価値を持つのか
実践者の成果はあまり価値が無いようだ
実践成果より学術成果・机上の理論が勝るのか
とりあえず真宗に的を絞っているけど、大乗全てを
「釈尊の教えと違う反する」「似非仏教」と言う気
なのだろうな
395だけどさぁ?
似非仏教の実践なんて言ってもいないし
それであなたとどのような関係が?
どうして何の価値も無い創作経典をベースにした似非仏教のスレに張り付かなければいけない動機が貴方の中に発生するのでしょうか?
>>401
答えは単純ではないかと。
真宗を否定する為に初期仏教を学んだのかと。
初期仏教支持者のage氏は真宗板以外で批判は繰り出していない様子ですから。
先発の天台や浄土宗を否定出来れば後発の真宗も否定出来るのに後発から
始めていますから。
仏教じゃありません阿弥陀教です、とか言った方がすっきりするけど
それは商売上差し支えが出るから、仏教の看板は下ろせないんだよね
その理屈なら真言・天台・浄土・時宗も似非仏教となる。
阿弥陀仏という点が教義上にあるからね
こんな動機は発生しませんよね?
バカにするという行為もちゃんとした動機があるのですが
心底どうでもいいなら動機すら発生しません
創価板もアンチだらけなんだが
だいたい、カルト宗教のスレッドはどこもアンチが多い傾向にある
全くその通りですね。
2chの各掲示板利用はそもそも自由 なんの制約もない。
更に言えば無法であり板のルールがあっても拘束力はない
に等しい。
自由に何でも(真宗の情報に縛られる事もない)書き込める
訳ですね。
真宗も釈迦に回帰して、真宗2.0をつくれば
伝統だから良いし正しい訳ではない。
新興だからといって怪しく間違っている可能性が高いという訳でもない。
ただ伝統=長年経過の場合だと長年受け入れられてきた結果という証明に
はなる。
釈迦の教えなら正しいというものでもない。
初期仏教でのゴータマ釈迦の言葉に近い教えだから正しいというものでもない。
初期仏教が唯一正しいのか?キリスト教が絶対的に正しいのか?
正しいという判断は時には人によって変わっていく事もある。
また自我思考で観念的思考する
私という意識とごちゃまぜになる思考、見解や視点を事実と混同をもさせる
実際は小賢しいだけで、解釈を歪めるのに長けているに過ぎない
ほんとうに仏教、わかってない
ん? 君は誰? 391と同じ人? 別の人?
もし391さんなら、そちらも仏教を分かっていないよ。
つまりどっちもどっちとなる。
例えば君の云うVer2.0=真新宗で生まれ変わったとしても
真宗より上座部仏教が勝り興隆したとしても・・・
君にはなんら影響も得も与えないのではないかな?
大経でも浄土の教えは誹謗されると説いてますから、
誹謗して、念仏者を惑わす衆生が存在することは必然の道理なんでしょう
また誹謗されなくなったら大経や二河白道の喩えは嘘ということでしょう
自分はこの人は異教徒の人だと思うね、しかもカルトにちかい何か
もろもろのアンチ活動になんだか妙なミッション意識を感じるよ
もっとはっきりいえば日本の信仰に対する軽蔑と憎悪がある
そこに真理が隠されてるのでしょう
浄土信仰とは易き道なようでいて
命がけの道であり、信仰の道であることを教示してくれてる
命がけの道を歩んでいる真宗僧侶がいないことがもはや滅法の予感・・・
その時代もこの時代も
娑婆世界の実相や衆生の言動ふるまいはなにひとつ変わりませんな
棺おけに入るまで誹謗しておればよい
真宗僧侶から明確な説明が無いからわかりようが無いもんな
話題をあちこち417.418に広げておいて答えがないから
知っていないって….勝ち誇られる訳ですか絶句
五蘊無我とは聞かない言葉だったが
五蘊と無我と二つで考えれば
色受想行識・・であり、この五蘊所成がこの私であり
無我とは全てのものには実体が無いし
我執に縛られず離れ自由になる事
即ち五蘊に執着しない、離れる事を意味すると思うのだが。
煽りと嘲笑い目的とはいえせっかく宗教板なんだから
せめて>>415で言っている五蘊無我の意味を頭で理解する位はしてくれよ
じゃないと勿体ないし、いかにも煽りだけと見えるので。
インド・中国・日本の高僧も充分すぎるほど学僧だぞ。
他宗派をバカにするけれど、源信と法然は生涯出家持戒の天台僧だぞ。
これはホントお笑いだよね
算数の問題に夢中になって解く小学生と変わらない
いやカラオケでもいいかも
しかも何言われても結論を変えないと決めてきている
それが彼らのやり方なんだよね
だから書き込み内容よりもその動機をじーっと観察して分析し
その目的を発見すれば自然にこの手の書き込みは消えるよ
また流転して
また誹謗して棺おけに入り
また流転して…
そしてようやく遇い難きに遇う
そういうもんです
まぁともかく真宗が似非仏教で、釈迦の教えだと騙していることがわかった
そうだとして、ならば正統な初期仏教で歩んでくれるというのか?
或いは真宗以外の大乗に進んでくれるというのか?
それとも信じるのはやっぱり自分!になるんじゃないか?
「中村元先生が~」も出なくなっちゃたね
そろそろ新しい芸を見せて欲しいな
これは重大ではないか、なら阿弥陀教でも親鸞教にでもすればいい
多数の仏教学者の信憑性>>>教義鵜呑みの盲信無知の真宗信者の主観
はいはい。
どちらでもいいでしょう 煽りたい貴方にとっては
阿弥陀仏教だろうとその”釈迦仏教”だろうと真言や天台だろうと
どのみち聞く耳は持たないのだから。
宿縁で信じさせられてるというほうが正しいかもしれない
ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ (教行信証)
親鸞の本からコピペする度に真宗関係者のドヤ顔がw
真宗僧侶が悦に入って門徒の苦悩を無視した自己満足の説教をする一方で
小池氏は本を出版して一人でも多くの門徒の悩みに答えているのであった。
真宗は理想ばかりが先行して現実に対応できていないんだよな。
だけど431の私には関係ない。
小池氏がどれほど本を出して一人でも多くの人の悩みに答えていても
私には関係ない、なぜって?悩みがないから答えを貰う必要もない。
そう聞こえるけどね。
わたしには人の苦悩を取り除けるような力はありませんので
そのようなことが出来るならばその人は凄いことですね
わたしは今ここにある私の苦悩を受容していく本願の教えがあるというだけです
ん?くやしいか?親鸞コピペ厨w
当然ながら釈尊が説いたことだけが法でもない
だからこそお釈迦さんは釈尊灯明とは仰らなかったんだよ
仏教が釈尊教と呼ばれない理由が理解できるのなら
仏に通ずる教えを仏教と呼んで差し支えない理由もわかるだろ
それが許せんという人は自分達だけで好きに呼んだらいいよ
また大乗本に影響された無知なこと書いているよな
過去七仏の創作話でも信じてるのか
自灯明法灯明を説いた時は、釈尊その人で、法とは釈尊の教え真理以外の
何をさすと思っているんだか
釈尊が説いたことだけが法とは仰らなかったよ
もしそうなら釈尊教に名前がなっていてもおかしくない
真理が釈尊の一生涯で全て説ききれるはずがないだろう
しかも相手の機根に応じて釈尊は対機説法で法を説かれた
法灯明の「法」は近代法の法律条文のような
固定化した形や概念じぁないんだよ
もしそのような固定化した限定的なものであるなら
諸行無常に矛盾するんだよ
大乗に都合いい出鱈目解釈はいいから
常恒不変なのが真理なんだよ、現象界を貫く法則の常恒不変、四諦の常恒不変
釈尊生誕前にも没後にも法(真理)は至る所に活きている訳だよ
ゆえにその法を感得した仏は釈尊だけと誰にも断言できないのさ
釈尊だけを仏に限定したり、釈尊が説いたことだけを法とするのは
法(真理)を限定的固定的にとらえている意味で間違ってるんだよ
それこそあんたが言うようにそれは仏教でなく釈尊教になっちゃうぞ
法、真理は釈尊生誕前から現象の法則性はあっても、それを釈尊が発見して四法印として
教えを説いたわけで、ならその四法印を過去に説いたのは誰なんだよ
諸仏という賢者が過去いたかもしれんとしか仏典には出てない
釈尊は自分の説いたことだけが法とは仰らなかった
そして自分の説いたことだけに従えとも仰らなかった
つまり仏も法も、釈尊由来のものだけに限定されないという事だよ
その意味がわからないと法灯明自灯明を理解した事にならんでしょ
釈尊が自分の説いたことだけが法で、自分の説法だけにのみ
従えと述べたというのならどこでそう仰ったか教えてもらえないかな
あなたの解釈は違うね、大乗本の影響だね、就寝時間だからまたね
うむ、おやすみさん、こっちも寝るわ
だが以下の点はとても大事なところなんで、もし指摘できるのなら
してもらいたいね、できないならいいよ、それも一つの答えだ
>釈尊が自分の説いたことだけが法で、自分の説法だけにのみ
>従えと述べたというのならどこでそう仰ったか教えてもらえないかな
釈尊が四諦という真理、法を説いた、そして他を依り所とせずに、法を依り所としろと、
と同時に関連づけて自灯明法灯明は四念処を説いている これは後の仏典には出てこない
生誕前から現象の法則性はあっても、それを釈尊が観察発見して四諦として教えを説いた
別の人が同じ法を説いても、元は誰か(釈尊)が観察発見して説いたもので、過去にその者の名もない
>>524と>>534がこたえと、
「他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ
では、どのように自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を依り所とし、他を依り所とせずに、
住むのか。~ それは四念処の実践だとすぐ後に説かれている
それはサティ、気づくこと、観察することと経文にある観行
これは真宗にはない実践、学者、上座の解釈と一致
あのさ、答えられないなら「わかりません」と回答しなさいよ
君が「法とは釈尊の教え真理以外の 何をさすと思っているんだか 」って
先に>>440で君が書いて、釈尊の説いたものだけが法だと強弁したから
その根拠を教えてと以下の質問を>>482でした訳だよ
>釈尊が自分の説いたことだけが法で、自分の説法だけにのみ
>従えと述べたというのならどこでそう仰ったか教えてもらえないかな
この質問への回答は、仏典に該当箇所があれば「ある」で根拠を引用する
なければ「ない」、わからなければ「わかりません」となるはずだろう
君の>>659を含むレスは全然回答になってないよ、なにごまかしてんだよ
>この前、お前逃げただろ、この矛盾をレスしろよ
君は人に聞く時こんなに傲慢なんだから、ちゃんと逃げずに答えな
お前が馬鹿だから分からないんだよ、何とか後世の創作品を認めさせようと
必死なだけだろ、エゴがみえみえなんだよ
>>659の通り
その当時、四諦という真理、法を説いたのは釈尊しかいなかった、当然釈尊の説いたものだ
ならそれ以外の法とは、誰が観察発見分析して説いたもので、どの法を指すんだよ
ほら、こたえろよ
あきれたわ、君、日本語大丈夫か、まじで
なんでそれがこちらの質問への回答になるんだよ
いいかえるとな、釈尊が他の誰かが過去未来、そして当時の
他の場所において、法を説く可能性がゼロと断言したか
それを聞いてるんだよ、そんなことはありえない
だから原始仏典には記載されてないはずなんだよ
釈尊の説いた法は普遍的なもので釈尊由来のものでも
ドグマでもないんだよ、だから君の主張はまちがいなの
あのさ、読解力ない馬鹿なの
未来に釈尊の説いた法を説く者がいても、観察発見分析して説いた釈尊の法に
他ならない、過去にいても名も経典も記録もない
現象の法則性は普遍的でも、それを観察発見分析して四諦という真理、法を説いた
四諦という真理、法を説いた←だから誰が他にいるんだよ、ほらこたえろよ
こたえられないだろ、お前の誤り
煽りじゃなく聞きたいんだが、君、日本人?
つまり、日本語ネイティブなの?
マジで読解力なさすぎだよ、そんな調子で文献読んでたら
そりゃあ頓珍漢な飛躍した結論になるわな
しかたがない、答えを教えてやろう
実は君の大好きな中村元先生が、釈尊が説いた法とは
時代をこえた普遍的なものであって、釈尊がつくりだした何か特殊
特別といったものではないとはっきりと明言されてるんだよ
だから君の主張している釈尊が説いたものだけが法というのは誤りで
同様に、釈尊だけが仏(ブッダ)というのも間違いなの、わかる?
四念処で法の無我性を観想するだろう、法に実体があるかのごとく
扱うのは君の原始仏教の解釈においては間違いなんだよ
君、四念処って言葉を知っているだけで実践していないんじゃないの?
あははは、無知不勉強露呈
それは縁起等については、前からあったけど、四諦は違うんだな
はい、四念処の解釈間違い
自己観察する人が、ありのままの真理を発見する、法を発見すると経文にある
四諦の常恒不変も知らないようだ、トンデモ間違い仏教を説く人だな
結局レスしないまま逃げたか
>釈尊がつくりだした何か特殊特別といったものではないと
つくり出したなんて書いてないぞ、そして特殊なものはないが、
観察発見分析により四諦を断定して説いていた
それが仏教であり、不変の真理であり、経文の法はそれ
フォローしてやると、有為法と無為法を混同してるんだろ
いつもごまかして逃げてるのは君だろうに(笑)
こちらの質問をよく読めよ(とほほ・・)
まじめな話、君は日本人なのか?日本語ネイティブ?
君は仏教徒でも仏道者でもなかったと思うが
何か今までに信仰していたものは?
キリスト教や日蓮宗、或は新興宗教の何かと
現在、過去に接点はなかったかい?
別に答えたくなければ答えなくてもいいよ
そして嘘をついてもいい
いずれにせよこちらの目的は果たされるからさ
君の脳内ではこちらの負け、逃げってことでいいよ
よかったな(笑)、じぁあな、お大事に
なら釈尊が説いたことと違う法とは何なのか、誰か(釈尊)が説いた教え四諦四法印を仏教と
していて、それと違うなら仏教ではないではないか
苦悩を排除するという教えではありません
苦悩を排除できず煩い悩むそのままが救われていく姿
本願に対面した自己がそれぞれ苦悩を受容していくということです
わたくしごときが他人様の苦悩を排除する力など毛頭ございません
何より幸いと思う。
まぁ2chですから自由なのですが….
初期仏教支持者のageさんもこんな真宗板に入り浸らずに一人でも多くの人の
悩みに堪えようと思い立ってくれればと。
そう思った時に「まず誰から」始めるか気が付くはず。
もっと格式の高い僧侶がおおぜいいらっしゃいますので
そちらも参考に
真宗僧侶、門徒と一言におっしゃいますが
全国に1千万人以上の門徒を抱える大所帯なので
誰がどこでなにしようが自由ですし、いちいち監視してられません
いやいや、真宗僧侶こそ、
専門用語での高説と高級車と金ぴかのお袈裟は充分に格式が高いですぞ。
真宗僧侶は最底辺ですわ
それでいいんです
はい
は?仏教は苦を消滅に導く教えだぞ
君の言う「仏教は苦を消滅に導く教えだぞ」
理論上ではそのようだね。
ただ実情は違うようだね。
>実情は違うようだね
真宗の教えではムリでしょ、ピエロ使って誤魔化すようなもん
いや、443さんを見ていると「理論上では」に見えるのだけれど。
他人に絡む必要は無いはず
他人に絡まなければならないところに人間の真実があり真理がある
未だに小乗使う無知いるな、世界仏教徒連盟会議で大乗側の蔑称だから
使うなと決議されただろ、しかもその小乗には慈悲の教えや慈悲の瞑想もあったしな
衆生苦しめば、菩薩また苦しむ
衆生救われなければ、正しい覚りはとらず
わかるんですか?あなたに。
どうせドヤ顔で経典の物語をコピペするだけでしょ?
あの文言が
なにか引っかかりましたか?
そこがわからないと大乗の覚りもわからない
君は「南無阿弥陀仏」が何音節か分かるのか?
南・無・阿・弥・陀・仏
六文字だね
音節に関しては時代、地域、人によって違ってくるね
>>474さんは「南無阿弥陀仏」の音節が一種類だけだと
思っているの?
それは誰の解釈ですか?
浄土真宗の定義ですか?
まず、「南無阿弥陀仏」が何音節と思っているのか答えてよ
解釈については、漢字の読み方には漢音、呉音など
時代と地域によって違うから、また人によって訛りなど
が生じる可能性があるから、一種類だけとは限らないと
お答えしておきます
そして「南無阿弥陀仏」は漢字では六文字以外のなにもの
でもありませんね
「音節」とは何か、教えてあげて
「六字」という表現はするけど、音節的解釈方法というのは
聞いたことがないなぁ
>>474さんはご存知だからこそ、「音節」について話題を出して
こられたのでしょうが・・・
「音節」(>>474)くんや「英語の概念」(>>512)くんは
もう来ないのかなぁ?
一風変わった新しい芸だったのに・・・
私は霊を慰めるという信仰はもっていませんが、
やりたい人は自分の考えでどうぞという立場かな
それをする人はその人なりの理屈に基づいてやって
いるのでしょうが、その現場に立ち会ったとしても
私自身の信仰に影響を及ぼすことないのは確かです
歴史上の人物としても釈迦の説いた教えだとは思い
ませんが、そのように説かれた教典を信仰の拠り所
としているのならば、それはそれでその人の信仰である
と理解することは出来ます
お答えしましたので、こちらから>>549さんに質問です
貴方は霊を慰めるという行事をどのように思いますか?
行ったことがありますか?
行われている現場に立ち会ったことがありますか?
もしあるのならばどのようにおもわれましたか?
お答えいただけるとありがたく存じます
>>474さんも>>512さんもお返事がないようだし・・・
> お答えしましたので、こちらから>>549さんに質問です
> 貴方は霊を慰めるという行事をどのように思いますか?
> 行ったことがありますか?
> 行われている現場に立ち会ったことがありますか?
> もしあるのならばどのようにおもわれましたか?
> お答えいただけるとありがたく存じます
霊を慰めるというようなことは認めませんね。
それでは、霊を慰める行事をする人に対してはどのように
思われますか
釈迦の教えに反すると思われますか?
私は、各自の信仰に基づいて行えば良いと思っていますが
釈迦の教えには反します、ただし各自の信仰に従えばよいと思います、
ただし真宗以外の話です。真宗では認めません。
えっ? 各自の信仰に従えば良いのに真宗では認めないのですか?
>>559さんは真宗を代表しているのですか?
それとも他の宗派は認めるけれど、真宗では認めないと
>>559さんの個人的見解をおっしゃっているだけなのですか?
???
すべて個人的見解ですよ、誰が他人の見解を言い表せたりしますか?
>>563でつけているアンカーはすべて
>>561さんにむけられたものです
苦笑
真宗の考え方を特に批判などしておりませんがなにか?
どこでそのような誤解をw
それでは頭の悪い私にこの文章について詳しく説明して
欲しいな
>>559
>ただし真宗以外の話です。真宗では認めません。
とりあえず省略されている主語と目的を示して頂きたいです
何が真宗以外に適用されるのか?
何を真宗では認めないのか?
主語と目的語ってなんだかわかります?
過去レスには「音節」の意味がわからなかった人が
いるみたいですから
おかしな奴だなw
スレにアンカー付けて回答してるだろ?
一連の流れだから主語を省略しても当然だろ。
2チャンネルでは流れを読み行間を読めよ。
だから頭の悪い私にご教示下さいと頼んでいるのです
目的語は何?
真宗では「何を」認めないの?
そしてそれは>>569さんの「ぼくのかんがえたしんしゅう」に
適用されるの?
それとも周知の事実として、真宗では○○を認めないと
いうことなの?
主語とか目的語とか日本語が難しいかな?
主語と目的語がないと意味が取れませんかw
それでは経典など一切読めないでしょうに・・・
答え
真宗で認めないのは霊を慰める行事
これでわかりましたかw
あなたは国語特に古文では苦労したでしょうね
「真宗で認めないのは霊を慰める行事」は、一般的に
知られていることであると、>>572さんがお考えである
ようでしたら、私にも理解出来ます。確認
真宗では一般的な話しすぎて、わざわざ話題に出すような
話でもなく、別の意図があるのかと思ってしまいました
失礼しました
別の意図というのは、真宗教団ならびに真宗関係者が、
他の信仰を持っている人に対して「霊を慰める行事」を
止めるよう主張しているのは問題なのでは、
と論じることです
一般的な真宗僧侶なら他の人の信仰に対して「~するな」
とは言わないよな
せいぜい、真宗が主だって行う儀式の中では真宗の教えと
反するような作法をお控え下さい、と言うぐらいはあるかも
しれないけど、わざわざ他人の家の庭に入り込んで
自分達の中でのみ通用する説を強弁するようなことは
しないよな
私の思い違いでしたね。失礼しました
それでは>>560さんは、真宗では「霊を慰める行事」する
ことを個人的に認めないという立場なんですね。確認
それなら私の個人的見解と近いですし、また、このスレに
いる多くの人が理解出来ると思うのですが
お布施の多少にかかわらず往生できない。
中村センセーガー君はコピペすらしていないから
常に「ぼくのかんがえたなかむらせんせいのせつでは~」
だから
迷惑帽子条例方違反とかにすぐにせんかったもん。
「阿弥陀様がなんとかしてくれる!(ドヤァ」としか言えないんじゃなあw
そりゃ俺でも小池さんに相談するわw
どうぞどうぞ
誰も引きとめはしてないですから
その方に相談して悩みが解決できればいいのでは?
言論統制下では太刀打ちできないから
小池になびく門徒を引き留められない真宗僧侶
ですから
誰も引きとめてませんし
引き止める理由もありません
おのおのの道を自由に進みなさい
でも貴方は小池氏に相談しないのは重々承知。
実践までいっとらんなこりゃ
その実践さえ無い真宗がドヤ顔w
草はやしたら負けだよ?
いや土俵にもあがってないか・・・
真宗は瞑想もしないのか、しかも小池スレで瞑想に意味あるのとか
呼吸法だけとか無知露呈で、やっぱ似非仏教だな
似非仏教ね~ あなたがそう思うならそうなんでしょうな
小池スレの話をここに当然知ってるはずと持ち出されても訳が分からんのだが。
瞑想の行は否定しない。でも誰でもいつでも出来る事だろうか?
真宗での聴聞では意味ないと言われるのだろうか?
そこが出来ないから大乗の覚りがわからない
何某さんに早く相談に行かないと
こんなスレにはもう用はなくなったわけでしょう?
いいのかもw
理論で対する人とただ煽るだけの人と。
まぁその?決議内容をご存じないのかも知れません。
明らかに違う方面の宗教だろ。
↑
まだ言ってるな
それも何某さんに相談されてはどうですか?
誰が言ってるの?
称えていいんですか?
どこの本山の取り決めですか?
好きにしなよ
すなわとい摂取不捨の・・・
密教呪術?
もう泣きそうじゃん。。。
真宗の聴聞以上に瞑想は状態というか練度を要するはずですが。
お名号?お念仏?での音節的解釈方法とは初めて聞くのですが….
それそのものがハタラキであると
勘違いしてるよ、きみ。
まだ何も言ってないが?
英語の概念って・・・
漢字の音にも時代、地域によっていろいろあることすら
しらなかったのかなぁ
それに正しい発音で名号を称えないと往生出来ない
なんて議論は聞いたことがないなぁ
悲惨すぎる
まぁともかく聞いた事がない話で答えも出そうにないですから
その話は置いておいて。
近いのは「ナモ」かな
まあ、寝ちゃったみたいだし、もう話は続かないだろうから
これくらいにして
俺はナモアミタバーと称えるけどはやり往生出来ないのだろうか?
みんな冷ややかにみてますよ
どうせなら関連するすべてをおとなえになられたらよろしいかと
南無阿弥陀仏
帰命尽十方無碍光如来
南無不可思議光如来
ナモアミタバー
ナモアミターユス
と。
南無阿弥米櫃になってしまうね
いったいどこからそんな発想が出てきたんですかね?
とりなしによって、天国に入ることができる」
「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」
後世の人間の都合のよいように経典が成立したわけでもないからなあ。
後世の人間はメンツが邪魔して否定するかもしれないけど。
キリスト教の影響を受けてるのは間違いないよ
というかナカムラセンセイガーのage君は日本仏教全てを認めてないのよね?
語り口から見て全て認めてないだろうね なぜ真宗に絡んでくるのかはわからない
私怨なのかもね
経典の内容がどうであれ信じちゃうんだよな。
釈尊は固有名詞だから「釈尊(誰か)」って意味がわかんない
それにあなたはこちらの以下の質問に答えていないよ
>釈尊が自分の説いたことだけが法で、自分の説法だけにのみ
>従えと述べたというのならどこでそう仰ったか教えてもらえないかな
あなたはいつも得意になって原始仏典を引用して答えるじゃないの
同様にこの質問について原始仏典から引用して答えてよ
できないならできないでいいよ、それも答えだ
無知ですね
「自らをたよりとして、※他人をたよりとせず、法を島とし、※法をよりどころとして、
※他のものをよりどころとせずにあれ。
では、どのように自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、
法を依り所とし、他を依り所とせずに、住むのか。
とその後に四念処が説かれる
長部経典「大般涅槃経(自灯明法灯明)」
この原始仏典の四念処、重要な教えだけど、創作変化経の盲信無知信者には
無縁だからわからないよね
無知な人ほど人に無知っていうんだよね、困ったもんだわ
あなたは>>531の以下の質問には答えられないということでいいね?
>釈尊が自分の説いたことだけが法で、自分の説法だけにのみ
>従えと述べたというのならどこでそう仰ったか教えてもらえないかな
それとさ、あなた自分でこんなこと書いといて意味わかってる?
>「自らをたよりとして、※他人をたよりとせず、法を島とし、※法をよりどころとして、
>※他のものをよりどころとせずにあれ。
学者の学説を絶対視して思いっきり依存してるあなたが何言ってるの(笑)
釈尊のお弟子さん(阿羅漢)が説く仏法と学者さんの学説とは全然ちがうよ
もちろんお釈迦さんの時代には経文もなくそれを研究する学者もいない
それと自灯明もね、自らの信ずることを頼りにしているからこそ
あなたの頓珍漢なアンチ書き込みに同調しない人がいるんだよ
それでなんか文句あんの?(笑)
しかもここは匿名掲示板だよ、なんであんたの主張にいちいち同調
しなければならないんだよ、あなたは自分のことを釈尊と同等に
扱うべきと思い上がってるだけ、その自我まみれ自己顕示欲まみれで
人に無我、無我ってしつこく書いて、シュールすぎるだろ
あなたの書き込みは釈尊のネガキャンと同じだよ
それが目的なんだったらはっきりそう書いたらいいよ
これは釈尊が認めておられて原始仏典のどこかに書いたあったはず
ゆえに釈尊の説き方で説かれなければ法でないというのは間違い
それが真の法であるかいなかを知るのはまさにブッダ’(覚者)のみ
釈尊前後にブッダが皆無であると誰にも断言できないはず
物事を対立的に理解し、一方を執拗に貶めるような者が
無我、無我って語ってるのをみると、例えが悪いので
最初に謝っておくが、泥棒に説教されてる気がしてくる
まぁ、誰とはいわんがね(笑)
四諦、四法印があって仏教なんだけどね、これ基本
他者が同じこと説いても、釈尊が観察発見分析して説いたものであり、
過去に誰か同じこと説いたとしても、その名もその経典もないから語れない
重要なのはそんなところでなく、その教え四法印が仏教であることで、
それと異なっている教えなら、仏教でないから、無常無我もない教えって何?
ここまで排他的とは
認めてよ!ぼくの言うことすごいでしょ!認めてよ!
可哀想になってくる
ageる事で少しでも人の目に触れさせたいという歪んだ自己顕示欲
毎度、根拠不十分なものを信じ、勝手な憶測と、解釈を都合よく捻じ曲げる
真宗信者は得意だね、カルトの兆候があるね
そんなに釈尊の教えが嫌なら、阿弥陀教か親鸞教にでも変えたら
うん だから何度も聞いたからそれ・・・
センセイの他はそれしか言うことないの?
やっぱあんた空っぽっすね
あなたは輪廻転生を信じますか?
つまり臨終後に別のものに生まれ変わりということを信じますか?
わからない、二律背反に陥る形而上学的問題より、今生でしょ
前世の意識,記憶なく生まれるなら、気にすることでもないのでは
今の意識,記憶があって転生するなら、別ですね
わからない、と言う答えはあなたの考えですか?それともゴータマの教えですか。
わからないものはわからない、ゴータマは有無でこたえてないよね
ただ未来の理想のとらわれとか、過去の後悔とか、それも自我で、
今生、今をどう生きるかでしょ、今の行動の積み重ねが未来に影響するし
> わからないものはわからない、ゴータマは有無でこたえてないよね
それが日本の仏教各派では往生できない先祖の霊を慰めるとか
悪霊をお払いするとか言ってます、あなたは信じませんよね。
そのようなことを言うのは間違ってますようね。確認
>
> 今生、今をどう生きるかでしょ、今の行動の積み重ねが未来に影響するし
未来と言ってもすべて今生のことですよね、来世のことはわからないわけだし。確認
>それが日本の仏教各派では往生できない先祖の霊を慰めるとか
>悪霊をお払いするとか言ってます、あなたは信じませんよね。
>そのようなことを言うのは間違ってますようね。確認
少なくとも真宗各派では、往生できない先祖の霊を慰めるとか
悪霊をお払いするとかは言っていませんよ
それくらいは真宗の入門書にも書かれていますよ。確認
真宗ではそうですが他宗派には霊を慰めると言う行事があります、
あなたはそのような他宗派のことをどう思いますか?
他宗派は釈迦の教えに反するとは思いませんか?
何が聞きたいのかな、人は完全に合理主義で生きられない性向もあるからね
今生だが、経典では今を説いてるんだよね、なぜなのか説明すると長くなるので略
あなたは原始仏教を拠り処としているのでしょ?
だったら日本の真宗以外の仏教他宗派は来世のこととか、霊魂の話ばかりするので
イチャモンを付けるなら他宗派のスレにいかれたらどうですか?と言うことです。
真宗は他宗派に比べ今生を問題にしていますよ。
真宗関係者なら「往生」は信じているでしょう
しかしながらそれが>>542さんのおっしゃるところの
「輪廻転生」とおなじものかどうかは、私は>>542さんでは
ないのでわかりません
そして「往生」については、真宗各派によっての捉え方が
異なりますので、詳しくは各宗派の専門書をお読みに
なられたらどうでしょうか
また、2chの過去レスにも個人的見解ながら「往生」について
説明されているレスもあるようですし、他のサイトでの解説も
含めて一度ネットで検索をしてみたらどうでしょうか?
せっかくネットに繋がっているのだから最大限利用しないとね
ggrks
などの共同日本侵略国の資金源でしかないのに。
ブラジルやアルゼンチンでは「ワールドカップいらない」運動が以前から起こってたけど
最近ブラジルでワールドカップ潰せの暴動があった。 サッカーがこんなにもてはやされる国って日本か韓国ぐらい。
なのに日本人はそれ知らないから似非日本人選手ばかりの日本のサッカーチームおうえんしてたりするし
ゆうちょ銀行なんて日本政府の命令でスポンサーになってる。それも思い切り日本人男性を馬鹿にした感じで。
「 オーレ―オーレ―」
言って喜んでる日本人は可哀想すぎるとしか「言いようがない。
サムライブルー=ブルーカラーのサムライ という意味の蔑称なんだけど
それも知らないんでしょ、日本人。。。。。。
死後の世界を信じない人は阿弥陀如来の救いはないわけですよね?
だから、「あなたはあなた、私は私。」に落ち着くんだな。
じゃあ、親鸞が頑張って構築してきた理論は何だったのかって話だな。
と言う答えでいいですよね。
わからないと言うことと浄土往生を否定することはまったく違いますよ。
そこは理解できますか。
浄土往生を信じる人は死後の世界を信じるわけですか?
生きている間に未経験の死後を信じることができるのですか?
未経験の未来を信じるというのは、
悟りとか成仏だとか仏教の世界じゃなくて妄想の世界にしかすぎませんよ。
君は真宗だけではなく日本の大乗仏教会全体を批判してるわけだね、違うか?
その「日本の大乗仏教界全体」とはどの宗派を指すんですか?
君に答えられるかなw
>>570
あれ?浄土真宗では悟りとか成仏とか説くんですか?
それはどこの本山ですか?
>あれ?浄土真宗では悟りとか成仏とか説くんですか?
「念仏成仏」でググってみたらどうでしょうか?
せっかくネットに繋がっているのだからね
もともとは法照の『五会法事讃』にある言葉なんだけどね
これもググれば出てきますよ
最近の小学生でもネットで検索することくらいするものな
いつも多宗派を非難しておいて、
自分たちが困ったときだけ「お前たち、仲間な!」はないだろう。
小池さんに頭と心の鍛錬をしてもらったほうがいいですよ。
その「日本の大乗仏教界全体」とはどの宗派を指すんですか?
他の方でもいいので答えていただけますか?
えっ? 普通に悟りとか成仏とか信じませんか?
お釈迦様が悟りを開かれたと信じる
ゴータマが仏となったと信じる
お生まれになったゴータマが天上天下唯我独尊と唱えたと信じる
梵天勧請によりお釈迦様は法を衆生にお説きになられたと信じる
これらはみは歴史的事実と言うよりも信仰による受け止め方
になるのでは?
これらが妄想の世界なのですか?
>未経験の未来を信じるというのは、
四法印の涅槃寂静を信じるのも未経験の未来を信じるのと違うか?
往生出来ない霊が彷徨っているなんて言い出したら
こいつは馬鹿かと思いますが、
他の宗派の人なら、そういう信仰をお持ちなのかな?
どんな経典を拠り所にしておられるのかな?
くらいは思うかな
すくなくとも拠り所となる経典なり論書を提示して貰えたら、
それも仏教の信仰の一形態であるとは理解するかな
いきなり「それは仏教ではない」とか「仏教の教えに反する」
とは、他人に向かって言うことはないなぁ
いつ非難したんだよアホ 言ってるお前がしょうもない絡みしてるだろ
さっさと浄土の証明でもしろよ。
「浄土なんて本人の都合っすよ!」とか言って
お前がしっかりしないからいつまでも絡まれるんだろ。
そろそろ本気出して「ビシッ!」と言ってくださいよ~。
証明しろと言ってるのじゃないよな
ごく稀にそういう立場で来世を説明しようとする人もいるけれど、
それこそカルトになっちゃうよなぁ
浄土の存在をしなさい
お経に説かれている
証明終わり
そのお経を、言葉通り解釈せずに成り立っているのが現在の宗教という事実。
どんなナメた態度取っても答えちゃうから調子のって謗法繰り返すんだよageは
それこそカルトになっちゃうよなぁ
どこらへんがカルトなのか基準が分からないな
宗教=カルトなのか
反社会的な宗教集団をいう語だと思うのだけど、そこには
他人の信仰や文化を認めないことが前提にあると自分は
理解している
信仰に属する事柄(例、浄土、輪廻など)を科学的方法論で
説明しようとして、それらを説明出来たと思い込んでしまうと、
それ以外の信仰の全否定に繋がるから
たとえばオウム真理教の信者にとっては、オウム以外の
信仰は全て誤りだっただろうし
他者の立場を認めることが出来ないのが一番の問題だね
よく分からないな
仮に浄土が科学的に証明されたとしてもそのことを以て他宗教を否定するとは限らないじゃないか
間違った教えを信ずる者を折伏しろって教えでもあるまいし
現に無我が科学と同じようなことを教えてるらしいと分かっても
仏教徒は別に霊魂の不滅を信じる宗教を全否定してないし
仮に浄土が科学的に証明されたとしたら、それは信仰でなく
科学的事実となる
科学的方法論による以上、ダーウインの進化論と、神が世界を
創造したとする特殊創造説を同レベルで語ることは出来ないから
無我が科学と同じようなことを教えてるらしいって何?
あくまでも「無我」というものの見方だと思うけど・・・
現代の上座部仏教にしても経典の中にあるゴータマの神話的
表現をそのまま受け止めて信仰していると思うのですが?
例えば天上天下唯我独尊とか梵天勧請とか
現代の文献学的方法論によって導き出された「釈迦の教え」を
そのままま釈迦が生きていた時代の人々が信じていたかというと
これは証明するのが困難なんだよなぁ
文献学の研究成果にしても刻々と改められているから
科学的方法論による世界の見方
経典に説かれた浄土を文献学的方法論によって検討すること
信仰という立場で浄土を捉えること
それぞれ別物だろ
同列に語ることができなからといって別に熱心なクリスチャンを迫害したりはしないと思うが
無我って別の述語で言えば無自性、無実ってことです 物質の分割不可能な構成単位って考えが破綻してきてるのとか
天上天下唯我独尊とか梵天勧請とかの下りは意味が分からん そんなもの俺に聞かれてもね
科学的見方と信仰的立場(信じてるとは言ってない)という変なダブルスタンダードって
別にそれほど普遍的な考えではないと思うよ
これは個人的な感想に過ぎませんが、
科学用語を使って宗教を語ったり、宗教用語を使って
科学を説明しようとする人に胡散臭さを感じるのです
厳密な意味づけをしないまま耳あたりの良い単語を
使って語るのは勘弁して欲しいかなと
主観的な事柄と客観的な事柄を混同するなと
仏教議論スレで泥沼化していますが・・
昔、TVに出ていたオウム真理教の信者が「信仰」と
「科学」を融合させたいと語っていたのを見て悲しく
なったことがあります
まあその種の嫌悪感はオウムの残党のHPとか見れば感じられる類のものですね
ただ信仰は主観的な事柄に過ぎないと断定するのは伝統説にシンパシーを覚える身からすると疑問
そこまで割り切ってるならもう信じてるってのが「」付きにしかならない
というか自分でフィクションと分かってる物語にそこまで愛着する必要もないのでは
科学を使って信仰しているもの(仏、浄土など)を証明する
必要はなく、
信仰するものが科学的見方や文献学的方法論による
経典解釈によって影響を受けることもない
両者は併存するものであると私は考えています
自分の信仰するものによって、科学的視点がぶれるように
なるのも問題ですしね
とはいえ、たとえばサンスクリット経典が新たに発見されて漢訳経典の誤読が判明した場合などは、やはり経典解釈を改めるべきなんだろうね(天台宗で実例あり)。
どの部分をどこまで改めるかの問題でしょうね
法然以降の浄土教において「念仏」といえば善導の解釈に則った
「称名念仏」ですが、サンスクリット本の当該個所を見てみると・・・
それでも「称名念仏」と受け止めるんべきだと思いますし、
「念仏」に対する経典解釈が今後も改まるとは思いません
信仰とはそのようなものですから
親鸞上人の至心廻向はサンスクリット本では否定されるんじゃない と言ってみる
> >>603
> 仮に浄土が科学的に証明されたとしたら、それは信仰でなく
> 科学的事実となる
> 科学的方法論による世界の見方
> 経典に説かれた浄土を文献学的方法論によって検討すること
> 信仰という立場で浄土を捉えること
>
> それぞれ別物だろ
別物という奴は、無知で愚かな者です。
今現在幼稚な科学が、将来進歩した時、宗教と一致しなくてはならない。
念と霊界、それは現在する、それを幼稚な科学で証明出来ないからと言って否定する理由にはならない。
ただ、馬鹿な手法、思い込みの新宗教儀は議論するに値しない、米びつ商法、
韓国の転覆船関りのキリスト教もどきの教団とかわらんが、、、。
そろそろ何とかしないとね
一宗派を鵜呑みして盲信無知な真宗信者の主観乙
しかも後世の創作作品と多数の学者に指摘され逆ギレか
お前の盲信無知な主観より、きちんと仏教を分析した多くの
仏教学者の信憑性の方が高いだろ
しかもその自灯明法灯明の解釈は上座部とも一致
結局、無我がわからず、思想の防衛に走るだけ
小賢しいだけで解釈を歪めるのに長けているだけ
鏡
まで読んだ
この前、お前逃げただろ、この矛盾をレスしろよ
>人間は所詮つきつめると信じることしかできないといっているんですよ
そう自我思考したんだろうが
>こちらは最初から知識とか思考なんてものは頼りにならないって諦観してるの
上の件の思考と、浄土思想という観念的創作、思考,想念で創ったもの頼り、矛盾だろ
浄土三部経、1-2世紀の創作作品、編纂者不明、原始仏典にない創作仏,阿弥陀仏
>>人間は所詮つきつめると信じることしかできないといっているんですよ
>そう自我思考したんだろうが
と、君の自我が思考した 以上
>>こちらは最初から知識とか思考なんてものは頼りにならないって諦観してるの
>上の件の思考と、浄土思想という観念的創作、思考,想念で創ったもの頼り、矛盾だろ
と、君の自我が思考した、以上
君の自我はきれいな自我、こちらの自我は悪い自我
それが君の醜いエゴまみれの思考回路なんだよ、いいかげんそこに気づけよ
何が真実か、人が何を信ずるべきか君ごときが決めることではない
それから以下の質問について君は答えられないって事でいいな?
>釈尊が自分の説いたことだけが法で、自分の説法だけにのみ
>従えと述べたというのならどこでそう仰ったか教えてもらえないかな
そういうのも上のほうでレスされてるのに
そんなことはなかったかのように
無視してまた同じコピペ始めるから
もう病気かなんかでしょ
そうですね、そう考えざるをえないのに不覚にも絡んでしまいました
>>605>>606
>釈尊が自分の説いたことだけが法で、自分の説法だけにのみ
>従えと述べたというのならどこでそう仰ったか教えてもらえないかな
この質問への回答はどうしたの?「逃げるつもり」?(笑)
君の書き込みは自我まみれだよ、君が無我と書く度に釈尊の名が穢れる
君のただの主観を勝手に事実認定しているのが君の自我だろうに
そんなことに気づかないとはな、でもわたしは笑わないよ、君とは違う
君をあわれに思うよ、これは君への慈悲だよ、これが仏道だよ、わかる?
創作変化経の教義鵜呑みの盲信無知信者のバカ主観乙
>君をあわれに思うよ、これは君への慈悲だよ、これが仏道だよ、わかる?
全く違うな、悟ってない者が自我思考してジャッジしてどうする
質問のレスは534に書いたぞ、学者も上座部も同じ解釈な
上座部仏教って過去七仏を信仰していなかったっけ・・・
自灯明法灯明ところは四念処の教えでもある
この四念処を大乗、真宗なんか全く取り上げてもないからな
そして学者、上座の解釈と一致
知らないだろうけど、上座は信仰さえ捨てよだからな、長老曰く
その意味も盲信無知のこの連中の頭ではわからないよ
長老とは誰ですか?
その長老が上座部仏教を代表されているのですか?
真宗スレでいきなり「長老」と言われても誰のことかわかりません
阿弥陀経には長老舎利弗と出てきますが・・・
釈迦が「信仰さえ捨てろ」と言ったのですか?
釈迦の教えと「信仰さえ捨てろ」は同じものなのですか?
>釈尊が自分の説いたことだけが法で、自分の説法だけにのみ
>従えと述べたというのならどこでそう仰ったか教えてもらえないかな
どう考えたらこの質問への回答が534になるんだよ、君、日本語大丈夫か?
本気でそれが回答だと考えてるなら話にならないよ
それに君こそ覚者でも仏教徒でもないだろう、莫迦主観はまさに君の事だな
自灯明法灯明ところは四念処の教えでもある
一部分を抜き取るから、誤って解釈してわからないんだよ
経典も読めない創作変化経盲信無知信者、それで求道者か
何ごまかしてんだよ、だから君自慢の知性でここんところ説明してみなよ
四念処では法の無我性を観想するんじゃないの?
だったらなおさら法を釈尊由来の、釈尊の説いたものだけに限定するのは
おかしいってことになる、君のいつもの主張と違うじゃんか
おっさん大丈夫か?さっきから同じことばっか言ってるぞ
悪口の書き方から見てお前そうとうイライラしてるな
禅とかどうよ?あ これも認めないんか。。。
うわー、また無知露呈
禅ってわかる?瞑想って何かわかる?知らないだろ
さすが、創作変化経の教義鵜呑みの盲信無知信者
(ループしてますよ!ヒソヒソ)
創作変化経の教義鵜呑みの盲信無知信者の主観はやはりだめだな
>と、君の自我が思考した、以上
書いてある事実にもとづいて指摘したもの その違いがわからないよな 笑える
コピペで許して下さい
まで読んだ
バカなの?
ネタつきちゃったんだろ?
お疲れ様でした
ここ重要
多数の仏教学者の分析の信憑性>>>創作変化経の教義鵜呑みの盲信無知信者の主観
こんなレベルだから、596のような自ら矛盾を書いて逃げ、無我がわからず
思想防衛に走り、小賢しいだけで解釈を捻じ曲げ わたしの真宗という我執どもです
もう何十回同じコピペで
飽きてきてるんだが
無知や知性に対するコンプレックスが見え隠れしてる
そんな患者かな
他人を無知と批判してアイデンティティを確保するしかない
ずっと平行線だよ もう謝っとけ
そんな知性レベルという結論です
経典も読めない創作変化経の教義鵜呑みの盲信無知信者の
相手って大変、風呂入るんでアウトするよ
ずっと平行線だよ もう謝っとけ
仲良くしようぜ
学者の本でも買いに行ったんだろうな
しばらくするとまた同じプラカードを掲げて拡声器でリピート
その典型例
ガクシャガー オオクノガクシャガーしか言わない
多数派=正しい それを根拠にしちゃうのが恐ろしい
本人は気づいてないだろうが
「長老曰く」
オオクノガクシャガー
チョウロウガー ←new!
歴史上において緻密な議論を積み重ねてきたがゆえの今の教学ですからね
それを改めるというのはそれまでの積み重ねを否定するだけの
論拠が求められます
教学的には
もはや主義主張の発表会ですね
浄土教はどんな主義主張であれ
お念仏の上にすべてが帰結していくという立場
主義主張があり、他者隣人を認めず、排他的思想に陥り
我こそはという我を立てる心からは離れられないのですかね?
南無阿弥陀仏しかないんだなと議論スレを拝見して
また再認識したところです
それはその程度の信仰だったということだからね
文献学、学問の立場と信仰の在り方とは本来別物なんだな
学問の世界で新しくより根拠がある学説が出てきた場合、
古い学説は批判的に見直されることになるから
それは中村元の学説にも当てはまることだね
宗教理論ってそんなもんだな。
平安密教を鎌倉仏教が否定して、
その後、為政者の基に教団教学が数百年間固定化されるが、
明治以降は資料発見と自由研究の基に旧来の解釈が手直しされる、と。
鎌倉新仏教が出てきたからといって、それまで信仰されてきた
ものが全否定されるわけじゃないから
今も多くの宗派がそれを信仰する人によって続いている
後から出てきたから正しいというわけでもないんだな
自分にとってそれが正しいと思えるというところが信仰の出発点かな
でも学問の世界では、新しい有力な学説が出ると既存の学説は
見直され、参照されることはあっても通説とはならなくなるから
ふ~ん、そうなんだ、という反応
で、次の日からも何も変わることなく仏壇にお念仏しています
信仰とはこういうものかと痛感させられてます
みせつけられた一瞬でした
現象として実際の信心とか理論証明する意味無いよね。
「思いこんだが勝ち」みたいな。
歴史的事実だから「仏」信じる、科学的に証明されているから
「浄土」を信じるというわけじゃないからね
自らの立ち位置を確認するためにも歴史や科学を学ぶことは大事
それらを学んだ上で、なお自らの中で信仰として続くものが
現代の信仰だと思うのです
自分の立ち位置がわかれば他者との距離感もつかめるから
私はこんな信仰を持っています。貴方の信仰は私のそれとは
違いますが、理解出来ますし尊重も出来ますとか
カルトにはそれがないからな
ある学者の説が絶対に正しいとするのも一種の信仰だよ
どんな偉い学者の学説だって、新しくより根拠のある学説が
発表されたら見直されていくから
ずっと一つのところに立ち止まるのは学問じゃない
でも信仰は学問とは立場が違うんだな
ここで言う、学者の説とは、きとんと多くの学者が観察,研究分析したもので、
仏教学会も浄土三部経が後世の創作作品であるとしていることは揺るがない
仮説と観察発見分析して分かったものとは分けないとだめでしょ
全部一緒にして、変化する仮説だと宗派に都合よく決め付けるのはエゴだよ
なら光は音より速い、ことが変わるのか、地球は球形、これも変わるのか
法により照らされた自己を拠り所とするということで
他人を拠り所としろなんて一言もいってないよな
その中に(釈尊の説いた世間の)真理が説かれていれば
民衆に伝える表現方法がそれまでと異なるだけの話だからね。
ただ、称名とか浄土などの概念は趣を異にしていると思うなあ。
観察,発見,分析による無常無我、想念に委ねない教え釈尊の無常無我
まだわからないのでしたら
もう手の施しようがないでしょ
時間が解決してくれるはず
仏さんはずーっと待ってますよ
その意味不明な言い方辞めたら?
カルトかよ。
阿弥陀さんはあれしちゃいかんこれしちゃいかんとは言わない
ひたすら待つだけなんです
この教えを信じ、保ち続けることは難中の難と経典でいわれるほどに
難しい
ここで僧侶の皆さんが面授もなしに言葉のみで信じさせることなど到底できない
修行しろってことですね、わかります。
どんな修行をすればよろしいですか?
捨てること
そしておまかせすること
それいがいなにもない
葬儀も法事も要らないんですね!?
そう思いたいならそれでよし
葬儀や法事をしないと往生出来ないとは言わないなぁ
たまに葬儀や法事をしないと先祖が祟ると言い出す
坊さんもいるけど、真宗においてそれはない
中村元はどうしたら悟れると言っていましたか?
中村元は悟りを開いていたと思いますか?
何を捨てたりおまかせすればいいのですか?
はからい これくらいわかるよね?
私がこれこれを捨てろといえば捨てるのかいな?
捨てないでしょう
自己の問題に向き合うしかないですな
のちのちわかってくる
そう焦りなさんな
新説に聞く耳なんか持たないよ。
法然教団が出てきた時の天台宗も、現在の教団の学者も同じことやってるよ。
まずは聞く耳もたないと・・・
何かを伝えるための暗号みたいなもの?
口伝とか秘密の教えとか。
秘伝なぞなにもありませんな
自己の人生の問題、生死の問題を機として
阿弥陀さんの本願と出会う縁となる
それいがいなにもない
純粋すぎるがゆえに垢がつきやすく謗られやすい
↑
まぁよくいるタイプ
真面目な話をしたければそれなりの場所に行くでしょ
ただ、ここでもたまに出てくる真面目な話題に出会えると
嬉しくなります
自分自身の立ち位置を見直す意味でもね
じゃあガクシャガーみたいな痛い奴にはハイハイ言っとけばいいかな
たまにホントの事混ぜてやるか・・・
まぁ 嘘を嘘と見抜k・・・・だからね掲示板は
創作作品、鵜呑み盲信無知…痛い
知識の集積でなくても、実際それを道具にし生活にいかされいるのも事実
きちんと研究分析した多くの仏教学者の信憑性
>>>一宗派教義鵜呑みの盲信無知の主観
俺はこういう謗法繰り返すアンチには教えたくないかな・・・・
見てると的外れな揚げ足取りばっかりだしラチがあかん
はい解散
フフフフ
己は何がかわった?
己の何が見えてきた?
涅槃寂静を会得できた?
実践もしないで、頭だけで何がわかったの?
教学なんて誰でもできるの
自己意識強化と正当化だけの思考,想念ばかりのとらわれだろ
鏡
頭だけときたか
わたしの頭なんて端から信用してないわい
ぼんくら頭だからな
なら創作作品に頭で執着依存し、思想防衛し、分析研究した学者に対し頭であーだこーだ
矛盾だな
浄土真宗における実践とは?
高いところに立ったつもりで他人の学説を振り回しているだけ
だから言葉に重みもなにもない
ワンパターン
教義を盾にする僧侶のことですよね?
その発言も学者が言ってたの?
???
それだったらこんなにムキになるのわかるわ
んなわけねーかw
昔、良寛という僧侶がいて
知り合いの出来の悪い不良息子に説法でもして
改心させてほしいと親御さんから頼まれた
だが、その息子は良寛の言葉に聞く耳を持たず
良寛が帰り際、その親御さんに涙して力足らずもうしわけないと謝り続け
涙しながら玄関先で体を小さく丸めながら靴紐を結ぶ良寛の後姿を見て
その息子が心思うところがあり、改心しjはじめたそうな
仏法を伝えるとはそういうことかもしれんな
遅レスになってしまうけどこの話、自分が聞いたのはちょっと違います
良寛さんが親御さんに息子の説教を頼まれたところまでは同じ
でも良寛さんはその息子に黙して語らず、説教もせずにただ数日過ごし
その息子のもとを去る出立時にわらじを結わえつつ涙を流された
その姿に感ずるところあって息子が改心したという話だったと思う
知識や小理屈でなく、無言の涙でも仏法は説けるという話だよね
同様の説話では摩訶迦葉の拈華微笑(ねんげみしょう)がある
わたしの真宗という我執
認めたくないのは分かるが排除されようとしてるのは君の方だよ
こういう時にも「学者」を持ち出してくるのね
学者もいい迷惑でしょうな
仏教学者を敵視してるんじゃなくて鵜呑みにするガクシャガーを哀れんでるのよ
学者は悪くないよ 学者を利用する不勉強の輩を生暖かい目で見てるだけさ
創作作品である教義を鵜呑みして盲信無知を棚上げとはな
どう位置づけるんだか
滑稽だわ
俺も前からそう思ってた。
原始経典は分かりやすいんだが、
そもそも浄土経典じゃないしな。
現代語訳を引用するのだけど、中村元訳には全く誤りが
ないとでも思っているのかなぁ
今もなお多くの学者によって中村元の訳語や解釈が
見直され続けているというのに
学問とはそういうものだから
教団教学もねw
浄土三部経は後世の創作品をはじめね
そして原始仏典に説かれる教えと、浄土思想、阿弥陀仏の想念創作とは矛盾する
原始仏典を引用する真宗信者は、つまみ食いだけだから、信仰さえも捨て去ることが
薦められていた教えも見つけられない そしてその教えの意味も分からない
細かい語訳だけを取り上げても、多くの学者の分析研究を覆すことはできない
せいぜい勉強不足な大乗ビイキの学者をあげてくるだけ
あたしゃ定年な
これ以上これ以下でもない、多くの学者も(上座も)同じ解釈
この学説が変わるんですってトンデモ説が盲信無知の真宗信者か
学説が変わるとか何の話してるんだか
雲の上からものを語らずに
地上の上、土にまみれながら仏教を語ればいいのに
お前がやれよw
正すこともないだろうに
ばかやろう
出家して東南アジアでも一人で行ってきたら?
そんな勇気も行動力もないから出来損ないニートなんだろうがな
働け
ばーか
だが実際は学説を振り回してるだけの頭空っぽの人間。
返答に困るとガクシャガーガクシャガーといってすぐ逃げる
けどガクシャガーは自分がうんこであると認められないんだろうな
プライド高そうだし
貪瞋痴の三毒、無明、心を制御できず思考,想念が暴走しているね
敵は自分のその心ですよ
教学詰め込んだ頭だけで実践も伴わない、ピエロへの信仰も無常で有効期限があるようで
それでも心が満たされず渇望し、不満、怒り、恐れで生きるのみなのですね、ナームー
> ここの住人は根拠不十分なものが好きで、相手への勝手な憶測、ラベル貼り、思惟差別、我執、
> 貪瞋痴の三毒、無明、心を制御できず思考,想念が暴走しているね
先生!心を制御するにはどうすればよいでしょうか?
思考想念を暴走させないためには何が必要でしょうか?
是非ご教授ください!
え、自分はその中村先生がの人ですよ、ナームーってのはシャレです
貶めといて先生とか釣りですか
どうやら心を制御できず思考,想念が暴走している様子です
助けてあげてください
法然や親鸞は現代にはいないから、わかりませんね
なんせ観念や妄想でものを語っちゃ駄目だから
観察、発見、分析をしようにも法然や親鸞が梵文解釈を
していたという事実は認められないから
とはいえ、原始仏典解釈にしても釈迦はこのように言って
いたであろうという想像でしか解釈が出来ないのだけどね
「釈迦は輪廻を説いたか否か」論争とかあるもんな
そういうのは仏教議論スレで泥沼に填まりながら
やれば良いと思うけどさ
ただ、明治以降になって情報が増えて多少解釈が違ったかな、というのはあると思います。
それでも法然や親鸞が「念仏」の意味とは~とか
阿弥陀仏の名前の意味とは~とか
梵文解釈をしていたかどうかというと、あくまでも
中国の浄土教祖師達の論に依ってですからね
現代の梵文解釈はまずサンスクリットテキストの確定
から始まるから
俺はこのテキストをこのように読んだ、というところから
ですよね
もちろん写本研究の立場もあるでしょうけど・・・
我々の信仰は、宗祖や祖師達がどのように仏の教えを
捉えてきたかを鑑み、それを自分自身はどのように
受け止めるかというところから始まります
サンスクリットテキストがどうだからで始まる信仰が
あっても良いとは思いますが、真宗はそう言う立場
ではないからなぁ
法然教、親鸞教
法然や親鸞は天台僧でしたから
それなりの方法でしか解釈できなかったんですよ。
法然や親鸞を特別視するのは彼らの名前でおまんまを食っている面識のない輩です。
>>751
ちなみに真宗では「シンランサマガー」です。
あんたはsageなくていいからw
??
根本解決しない 真理の実践を教示したのが仏教、宗教的性格をおびて後世、信仰を修すべし
となったしな
それは誰の学説?
論文などを提示していただけるとありがたく存じます
きちんと分析している多くの仏教学者の解釈です
そして上座テーラワーダも同じ解釈です
というか、
スッタニパータ、サンユッタニカーヤに、信仰を捨て去れと説かれている
だからちゃんと論文なり書籍なりを提示してよ
本当に読んでるの?
これホントお笑いだよね
算数の問題に夢中になって解く小学生と変わらない
いやカラオケでもいいかも
知識ををこねくりまわして自我まみれの君が何いってんだか(笑)
白楽天と道林禅師の問答をしらないの?
君、なんか知に対してもの凄いコンプレックスがあるみたいなだな
無知不勉強、止観(定と念)の止行だけでは解脱悟れないんだよ
これは仏典をよく読んでいる人ならわかること
そして肝心な観行を知らないのが、後世の創作経典を盲信する無知な奴だけな
いつものように無知は君だ
在家でも解脱できると釈尊は説いたのか?
お念仏で解脱できると誰がいったよ
君の脳内でどんどん飛躍した結論をだして
こっちに文句いうのを止めろよ(笑)
んで微妙に話そらそうとするし
たどり着いたのがこのスレか ほんと迷惑
まず自分が勉強しているとか賢いとかいう奢りを捨てたほうがいいよ
勉強しているのは学者であって「あ な た じゃ な い」
おっさん一日中張り付いてるね
PCの前じゃ実践とやらはできてないみたいね
さすが創作品の教義鵜呑みの盲信無知信者、恥ずかしい
釈尊が四諦という真理、法を説いた←だから誰が他にいるんだよ、ほらこたえろよ
わからん奴だな、法を実体のある固定的なものとして扱うのが間違いなの
だから釈尊の説き方はその一つであって、それが全てでも
それしかないとか、それ以外ではだめとか、そのような特別な
限定のしかたをしたらその説かれた法は普遍的とはいえなくなるんだよ
再び、煽りじゃなくマジで聞くんだが、君、日本語ネイティブなのか?
いや~
まじか
>>775
釈尊が四諦という真理,法を説いた←だから誰が他にいるんだよ、ほらこたえろ
早く早くこたえてよ
逃げるなよ
対機説法の意義、意味すら君はわかっていなかったって事か(笑)
君のその質問は中村元先生にしなさい、じゃあな
ガクシャガーのボロがでまくって笑える()
手塚治虫のブッダおもしろいよ おすすめ
全体って言ってるのに・・・ まぁいいか
自分の肉体の死後、どのように「私は浄土に往生しました」とか語るんですかね?
覚者はそんな器用な事が出来たのですかね?
生きている間に浄土往生するならわかりますが、
浄土真宗では、浄土往生は肉体の死後のこと、なんですよね?
葬儀でよく言ってますよね?
いや君のような経験主義に立つなら死後であろうと今生であろうと同じことだろう
未だ経験されないことについてポジションをとる話なのだから
私は「往生した」という言葉は語られることはないが、
原始仏典にも「○○は四無量心を修習したので死後梵天界に生じた」という類の記別があるだろ
これも何回も書いていることだが、生きている間に浄土往生するなら往生即成仏なのだから
その人はこの身で仏果を証したことになるが、真宗では即身成仏など説かないのだから即身往生は不合理だよ
往生即成仏と即身成仏の成仏は同じ現象なのですか?
往生を今生の現象と解釈した場合、今生この身で成仏するのだから同じだろ
痛いところつかれると、
「よそも同じだ!」
って言い出すのが真宗布教使の常ですw
あるあるw
日本仏教は殆どすべて大乗経典を頼りにしていますが
なぜ真宗だけに粘着するのか?
意訳すれば「よそも同じだ!」ですね、わかります。
毎度の煽りage師 今夜も飽きずに真宗板にご出勤です。
ネタが使い古し 切り口がいつもと同じな点で判断つきますw
悔しいか?
なんで?
せっかく煽ったのに予想に反して燃え上がらないね
ネタが悪かったのだろう
そこで縛り上げて柱にくくりつけると息子が涙で鼠の絵を書いた。
あまりに上手で本物そっくりだったので了寛さんが鼠と間違えて
腰を抜かしてぎっくり腰になったとか。
何もなくても子ども達がニコニコ集ってくる人っている
良寛さんもそんな人だったとおもうな
その良寛さんは実家が神官の家で菩提寺も真言宗
だけど禅寺で出家され一時期は神社の宮司もしていた
しかしお墓は晩年は身を寄せておられた木村家の宗旨にならい
浄土真宗のお寺にて弔われたという、まさに何でもあり
その神仏と分け隔てなく向き合う姿はなんか憧れるな
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クリスチャンやめたやつ、ちょっとこい
1: 神も仏も名無しさん 2014/05/24(土) 16:29:21.23 ID:lZx/PBa
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