クリスチャンやめたやつ、ちょっとこい
教会や社会性のないクリスチャンに躓いたこともあったけど、最終的には教義と神が理解できなくてやめた。
キリスト教のバッググラウンドがゼロのところから来た身としては、色々異文化すぎて受け入れられなかった。
5 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2014/05/14(水) 18:46:10.68 ID:+aCC7XYg
キリスト教徒がキリストの教えを理解してないというのは
もうずっと言われ続けてるな
だから隠れキリシタンってけっこういるんだよ
教会に通いたくないらしい
好きにしたらええ!
今でも神の存在は信じているし、祈る事もあるけど
プロテスタントは狂信的で十一献金とかあって嫌だし
カトリック教会に行ってもくだらない人間しかいないし
僕は有神論の無宗教生活が性に合っているみたいです
教会生活は良い人もいたけど、変わった人も多かった。社会で相手にされないから教会に居場所を見出しているような。
宗教に傾倒していない人の方がバランスが良くて健全で付き合いやすい人が多いと気づいた。
>>宗教に傾倒していない人の方がバランスが良くて
>>健全で付き合いやすい人が多いと気づいた。
要はテクニックですよ。そんなものは、「命」を持っていなくても
出来ることだから。要するに相手の人に「いい人だなあ」と思わせられ
たらいいだけの話で。つまり、相手が気持ちよくなる壷を刺激する技術に
たけているだけの話ですよ。そんなことは、悪魔でも出来ることです。
もちろんテクニックもあるだろうけど、それだけじゃないよ。多分あなたが思ってるより世の中の人はもうちょっと良い動機で動いてると思うわ。傲慢だなぁ。
でも、動機の根幹は明らかに違いますよ。
ノンクリスチャンの場合は、「自分の命を救う」「自分たちの命を救う」
という根っこに対して、
クリスチャンの場合は、「私はすでに死んでいて、私の命は神のうちに
隠されている。」という根っこです。
いんぎかいさんはプロテスタントでしょう?
自称して書いていただきたいですな。カトリック信徒としてはこれでは
未信徒の方が誤解するという害毒をばらまいてます。
>「私はすでに死んでいて、私の命は神のうちに 隠されている。」
カトリックには、このような根っこはありませんわ。
そういう思いはクリスチャンもみんな通らされますね。
過去自分もそういうところを通って、ずいぶんと神を呪う言葉を
吐いたもんです。でも結局は「みことば」にもどらないと解決なかったので、
十字架に帰って、即、解決でした。
>>32
「>>33」とほぼ同意見です。
>>33
おっしゃるとおりです。
>>34
>>カトリック信徒としてはこれでは
>>未信徒の方が誤解するという害毒をばらまいてます。
それはすみませんでした。おっしゃるとおり僕はプロテスタントです。そして、
コロサイ 3:3 「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、
キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」の引用です。
本当だね、教会に行くの止めてからよくわかりました
そりゃそうだよ。ノンクリスチャンのように「罪・世」の一面性の生き方しか
できなかったのが、主イエスを信じて、「義・いのち」の生き方に切り替わって
それにも関わらず、過去の古い自分の「罪・世」の生き方に時々なってしまうんだから。
二重人格じゃなくて、二面性と言って欲しかった。
で、ノンクリスチャンは「罪・世」sideの生き方しかできない。
義もいのちも彼らの内には全く無いのだから。
「代わりになるもの」を用いて自分で自分を埋め合わせするのが
上手な人だと思えばいい。
キリスト御自身だということになる。
キリスト以外のものならどんなものでも代わりになるわけで、
例えば、財力、権力、美力だとか。もっと身近にだと美味しい食べ物で
元気になるだとか、サウナに行くだとか、スポーツだとか、酒、女、
ギャンブル、薬だとか、家族に、友人に、恋人に、愛人に、
いろんな趣味、芸術、哲学、思想、宗教などなど。キリスト以外のもので
代わりになるもので自分を活性させるってことですね。
それがノンクリでの健全に見えるタイプの人たち。世です。
信仰自体を捨ててしまう人もいるようですね。
隠されていると思って調べたとしても結局のところ、
「キリストが私たちの罪のために死んでくださって、三日目に死を打ち破って
よみがえられた」ということが最大の真理であるわけで、求めがそこに帰結しない
限りいくら神の真理や救いや、癒しや問題解決を求めたところでそれが
かえってつまづきのもとになるってことですね。そこに帰ることが
できないのであれば「信仰を捨てて楽になった」って始末になってしまう。
ことじゃないんですよ。
神のもとに帰るってことは、信仰によってキリストの十字架のもとに
行くってことです。イエス・キリストを信じる信仰。それだけです。
キリストの十字架。死と復活。キリストの信。それだけです。
神に埋められているはずの人が、そうでない人よりも粗が目立っていたりすると、それを埋めている神ってなんなんだろうと思う。
そう言うと、罪人だから完璧じゃないって反論されるんだけど、別に完璧を求めているのではなく、普通の人ができていることができていなかったり、もしくはしらなかったりと、ある意味平均基準を下回っていることが多いから言うんだけど。
問題児が多いっていうかさ。
それを違う価値観で生きてるから迫害されてると思ってる人もいるけどね。
でも結局のところ十字架なんですよね。
「キリストが私たちの罪のために死んでくださって、三日目に死を打ち破って
よみがえられた」というのを信仰で受け取ること。それだけです。
ちまたには十字架をご親切に説明してくれる知的説教はあふれていますが
それらがかえって十字架を分からなくさせていることは事実です。
神と私が一対一で向かい合って、その御言葉にただ完全降伏して、
それを信仰によって受け止める以外に他は無いです。
ノンクリスチャンとクリスチャンの違いが出てくるのは
それぞれの根っこの違いだと僕は思いますね。
ノンクリスチャンのほうにいい人が多いと思われるのも、
それだけ彼らが世にたけているからでしょうね。
すごく愛されやすい人ばかりですよ。
営業力抜群の人ばかりです。
かえって命を失うってことになると。
・・・ど壷にはまってしまうわけですね。
十字架に帰らないとね。
神様はイケズとちゃうかって思うこともあるな
クリスチャンとそうではない人と別人を比較するのではなく、
その人がクリスチャンであるときとそうではないとき、を比較しないと。
だから、あなたに対する反論として、このように言えるよ。
あなたが他者を愛せてると思えなかったクリスチャンは、クリスチャンをやめると
もっと冷たい人になるだろうし、
あなたが他者を愛せてると思ったクリスチャンでない人は、クリスチャンになると
もっと他者を愛せてるかもしれない。
クリスチャンの人はすぐそうやって言うんだけどさぁ、仮定話だとなんとでも言えちゃうんだよね。
個人的なことで言えば、クリスチャンである時もない時も、愛の量は変わらんかった。同じく嫌いな人は嫌いで好きな人は好きだ。
むしろクリスチャンとノンクリという壁ができた分、変な感じになっちゃった。
クリスチャンじゃない方がもっとのびのびと人と付き合えるようになったな。
なんか色々と解釈が難しかったわ。十字架然り。私にとっては異文化すぎた。
それでもクリスチャンの私が混乱するようなことを書くと、
未信徒の方はますますわからないでしょう。
>>29-30
いんぎかいさんは、クリスチャンなりたての人の鈍くささ、世渡り下手を
書いてるのかなあ。私は、結局人に表面だけでなく心から好かれて
営業もできるのは、クリスチャンであると確信してますよ。
日本人は表面だけでは繕えないものを、観てないようで観てますね。
>>クリスチャンは「自分を生かそうというエゴだけでは動かない」ということ?
そうではなくプロテスタント解釈としては、「自分を生かす必要はない」です。
すでに救われているのに、心や体や事象における問題が起こると自分を
救おうとするところにつまづきの原因があると解釈しています。(プロテの一部の解釈ですが)
カトリックのように、救われた以後から、「キリストの教え」を自分で歩む
ことによって救いを完成しようとするものとは根本的に違いますよね。
プロテスタントのことを、
すでに救われてるというのは甘いと思っていましたが、
「自分を生かす必要はない」という潔さ厳しさと抱き合わせなのですね。
そうでしたか。
ちなみに私にはプロテスタントの親友がいまして
信仰を尊重しています。
祈ることに困難を感じなかったし、祈らないで決めちゃう人とか不思議だった。
神様に聞けばいいのに、なんでしないんだろうって思ってた。
でもある時、これ気のせいじゃない?私誰と話してるの?統失?って思い出してから止まらなくなってしまって、今まで理解していると思っていたことが、まったくわからなくなってしまった。
結局私は何一つわかってなかった。あんなに近かった神様はもうどこかへ行ってしまったか、最初からいなかったか。
ペンテコステ系でしたか?
ペンテコステじゃないよw
周りにはそういう人もいたけど苦手だった。
私は福音派→フリメソ。
ただ超教派のミニストリーにもずっと関わっていたので、若く熱いクリスチャンが多かったなー。
だから信仰が熟す前に嫌になってしまった。
ありがとうございます。
文面からして、ペンテコステ系かなと思いました。
自分は、都内のペンテコステ系を退会した者です。
ペンテコステ退会して今はどこかに行かれてるんですか?
ペンテコステはもうきっと別物ですよね。
ペンテコステを理解できない人と一緒に(結構いっぱいいた)、彼らの異言のものまねとかして遊んだりしてしまったw
休眠状態です。
どうしておられますか?
私は棄教しました。それぞれの宗派であれこれ言い合ってるのも面倒くさいし。
>>50
なんでそんなこと聞いてくるのかわかんないけど、面倒臭いんで自分で探してください。
熱心といえば聞こえはいいもののやたらハイテンションだから疲れちゃうんだよね。
かと言って上記三つだから棄教しないかって言えばそんなこともないんだよね。
> カトリック、ルーテル、聖公会以外だと2ちゃんではすぐに、新興宗教じゃんwってバカにされるんだけど、
すぐに? 新興宗教じゃん? バカにされる?
そんなふうに言われているスレを具体的に教えてください
私がクリスチャンだった時、とにかく祈りが好きで、一日中なんかしら神様と話す怪しいやつだったw
祈ることに困難を感じなかったし、祈らないで決めちゃう人とか不思議だった。
神様に聞けばいいのに、なんでしないんだろうって思ってた。
でもある時、これ気のせいじゃない?私誰と話してるの?統失?って思い出してから止まらなくなってしまって、今まで理解していると思っていたことが、まったくわからなくなってしまった。
論理的棄教だったのですね・・・・。
で、祈らないと行動できない不安は何かあったのですか?昔に?
こういう引用のされ方初めてw
祈って行動してたのは不安だからじゃなくて、祈ってから行動した方が目的とヒントがよく見えたからです。
神様のみわざがよく見える(と感じていた)ので、何をするにも手応えというか、意味を感じやすくなってた。
でもそれもこれもただの思い込みかなって思って今に至る感じです。
俺はキリスト教は信仰はしてない、敬虔な仏教徒であるんだが、むろん神秘拒絶平然と言う超合理主義の極北の仏教なんですけど。
そのくせ、駅前留学気分でwキリスト教の霊的感触を味わう趣味があるので聞いてみたかった。
なんというか、合理主義でないキリスト教に信仰に入らないだわなw
キリスト教徒の世界じゃ、普通、この域来たら信仰するよ、ていう域だと思うんだが・・w
合理主義的感覚で解決できるなら、当然、キリスト教を棄教するんだろうな。
元キリスト教徒の作家、高村薫は阪神淡路大震災で棄教したらしい。
たぶん合理主義的判断だと。仏教にシフトしたとか、聞いたような。
高村薫がキリスト教棄教したって知りませんでした。
キリスト教を棄教して、次に行くことは私はないと思います。
どの宗教もやっぱり疑問があって、イエスと出逢った時には、他の宗教と似て非なるものなんだって思ったけど、
キリスト教も違うやって思った時に、私は何かを信じるということが無理なんだろうと悟りましたw
ただ罪人(的外れ)の概念がわかったことは大きな収穫だったかも知れない。
これによって他人を赦しやすくなったから。
バイブルスタディも楽しかったな。
でもやっぱり異文化な感じに馴染めなかったのと、贖いがどうしても理解できませんでした。
キリスト教は他の体験は正直大切じゃないと思う。
むしろ躓きになることも。
十字架の贖いが一番肝心であり、要なので、ここがブレていると、私のように棄教することになると思います。
正直あの教会の排他的な雰囲気、人間的なものをすべて否定、異言の祈りなど僕には向きませんでした。
今後別の教会に通うかは不明です。
その追い詰められたお気持ち、よく分かります。
今しばらくは、ゆっくりなさって下さい。
ジミヘンみたいにギターを燃やすようなw
仏像、お経を燃やした、お経をトイレット・ペーパーにしたとか、
女性の秘部を拝んだとかみたいな話が平然とある仏教w
信じるは全く考えない、破壊主義思考、あるのは生活の実用的実践のみw
佛教自体が日本以外は本来、タイにしろ、「信じる」軽視だからなあ、基本観察洞察でしょう。
スリランカ佛教(南方部強)のスマサナーラは「信じる」キリスト教みたいなのを批判猛烈だよな。
基本「信じるよりも確かめる」らしいです。
非信じる系の仏教だと、物事の道理を把握できないから罪人じゃないの?
て言う処だろうなあ。
キリスト教は他の体験は正直大切じゃないと思う。
むしろ躓きになることも。
十字架の贖いが一番肝心であり、要なので、ここがブレていると、私のように棄教することになると思います。
同意します。
俺は異端的キリスト教観に近いので、 十字架の贖いは理解の為に無く。
聖霊の至福による苦痛の軽減の為と、信者に自己放棄を勧める為に、それをやったのだろう、という感だな。
おれは一般のキリスト教徒のこの件に関する認識は批判はしないけど、俺個人としては重視しないな、故にキリスト教徒でないのかもしれん。
52 :神も仏も名無しさん:2014/05/29(木) 10:58:18.55 ID:1o5hnmzIの4時間前は
明らかに、キリスト教の聖霊の霊力が強かったなw昨日社会福祉事業する教会の建物内で1時間ぐらい居たせいらしいw
>ジミヘンみたいにギターを燃やすようなw
仏像、お経を燃やした、お経をトイレット・ペーパーにしたとか、
女性の秘部を拝んだとかみたいな話が平然とある仏教w
信じるは全く考えない、破壊主義思考、あるのは生活の実用的実践のみw
は仏教の一派ね。これ。
私が祈りが好きだったのは、確かめることが好きだったからだろうなぁ。
でも実際に姿が見えるわけじゃないし、声が聞こえるわけでもないし、さらに十字架の確信もないので、根底から揺るがされてしまったんだろうな。
キリスト教にも、信仰の確信という言葉があって、みんな一歩ずつやっぱり何かしら確かめてるんだよね。
でも一番肝心な土台は十字架の贖いであって、そこを土台にして積み上げられていく。
それがないとやっぱり崩れるね。いつかは。
そうなの?
俺は今も昔も、信じない主義、神秘主義を信頼して生きていかない主義なんだけど、
初めて教会へ覗きに行った後、洗礼も受けず、信仰する気も無いのだが、祈りもしなかったが・・・
聖霊の至福が来たなあ(キリスト教徒に大否定されるだろうなあw)
で、アメリカの大統領ブッシュがキリスト教信仰でアルコール中毒から救われたんだが、
イラクに戦争を仕掛け、攻められて地域は今もテロが繰り返される・・・
こんな至福の世界感触があるのに、そういった事を思考していたら、涙が流れ落ち・・・
キリストも悪い奴では無いのだな・・・・とw
むろん信仰していない11年ぐらい・・・。
カトリックのミサの後、家で光の神秘現象が起きたが、
あ、そう…扱い。
俺の人生では、仏教で追及する、現実の物事の正確な把握による生活しか関心がなかったから。
たまに教会へ行く縁があって、聖霊の霊力を食らうが、、、
あ、そう・・・扱いだなあ。
日本キリスト教団長老派系は、特に、これが好きだな、信じる一辺倒、
縁があるんで礼拝行くんだが、これの傾向の説教時は最悪だな、
伝道にならんやろうなあ・・・・と、
たぶん、本来あるべきオーソドックスのキリスト教信仰は、
聖霊の至福があって、聖書の深い意味の理解が進み、自己放棄と聖霊の至福を知って固まるんだろうと。
たぶん、極端に既存のキリスト教会は
>一番肝心な土台は十字架の贖い
にシフトし過ぎているんだろうなあ、と。
恐らく、十字架の苦しみと聖霊の至福ををキリストと共に歩むというのが本来だと思うな。
使徒行伝等の使徒の殉教の話なんか見ると、ステパノの殉教とか。
俺は合理主義なんで苦難苦しみの感受は合わんけどな。
仏教は苦から離脱を目的に建てられた宗教ですから。
私は某キリスト教国で救われ、そこから日本人教会に流れ込んだ組なので、
日本だけで使われてる言葉がわからない時があります。
でもなんとなく推測はできるので…
>聖霊の至福があって、聖書の深い意味の理解が進み、自己放棄と聖霊の至福を知って固まるんだろうと。
これで多分合ってると思います。
でも基本は十字架の苦しみ、というよりは、私たちの罪のためにイエスが死んでくださり、墓に葬られ、三日目によみがえったというのが土台だと思います。
だから私たちはもう贖われ、新しい永遠のいのちをもらったハレルヤ!っていうw
日本人教会は、聖霊という言葉を極力出さないところもたくさんあります。
それはカリスマ聖霊派があまりにも聖霊体験を前面に押し出しすぎて、
聖霊=神秘体験=オカルトになってしまい、非常に誤解が多く解釈が難しいので避けているという話を教会関係者からたくさん聞きました。
でも聖書理解神を理解するのに、聖霊の働きは切っても切れないんですけどね。
(苦しみだけではだめです。完了していないので)、
やっぱりいつかの時点で信仰を失うというのは身をもって体験しました。
周りを見回してみても、信仰が続いている人は一様にそこの部分を信じていますね。
深さは色々あれど。
じゃないと続かないんだと思う。
やめてみて改めて、十字架の大切さがわかりましたw
カリスマ聖霊派はどっか、御利益主義、苦難と向き合うのを避けている感がありますね。
>私たちの罪のためにイエスが死んでくださり、墓に葬られ、三日目によみがえったというのが土台だと思います。
このシフトが濃い感じがしますね。
やはり、仏教の様に物事の把握と精神分析が無いので、罪人であり、
信仰者の不可知の、今、将来の不安の解消で救うと言うイメージがします、
十字架の贖いは・・・・・
今思い出しましたが、宗教学者のチベット密教の修行した中沢新一も家庭がクリスチャンだったと思い出しました。
神はブラックボックスで不可知みたないな事書いていたのを思い出しました。
こうまでして罪人のしょーもない私を買い取ってくださり、新しいいのちをくださったことへの感謝の気持ちというか。
使徒たちからはイエスへの不器用でありながら精一杯の愛も感じます。
聖書で殺しまくってる神が、神は愛なり、なので正直イミフですがw、
でも使徒たちの熱さを見ると、案外そうかもしれないと思います。
その愛を身をもって体験した者だからこそできたことなのかもと。
私はイエスは好きです。
旧約は殺しすぎの古すぎで受け入れられないことが多々あり、
書簡はパウロがでしゃばりすぎてて嫌ですw
最近、縁がある優れた社会福祉活動に努めている牧師の教会へ行った後は特に・・・・
マックスに聖霊の霊力食らうと、相当な快楽が、昔あったなあ・・・と。
この域に来ると、祈りが快楽に・・・・
この時は祈りを重んじない主義のワイだが快楽が来るんで、沈黙に祈ると快楽がより、ウナギ登りというか・・w
ここまでくりゃ、信じろwと言われる域だが・・・w
俺は合理主義の美学があるからねえw・・・・とw
それで信じるのはやめた方がいいと思いますw
霊がきたからといって全部が聖霊ではないし、悪霊の場合もあります。
悪霊も表面は良いものを装ってくるので見極めは難しいです。
その時はわからないことが多くて(というか見誤る)、あとでわかることもあります。
特に指導者が魅力的な場合、色々な思いも交錯するし、場所によっては集団ヒステリーな時もあるし…。
ただそこで信じるのは勧めませんが、合理主義だからというのは考え直した方がいいかもしれません。
自分は合理主義だからクリスチャンなんだって言ってる人にたくさん会いました。
合理主義ならクリスチャンはぴったりだよって言ってる人もいました。
私はその辺興味がないので詳しくは聞きませんでしたが、
確か答えが全部聖書に書いてあって、一発で答え見つかるからって言ってたかな。
キリスト教国のアメリカが合理主義で、神道仏教国の日本がそうではない(回りくどくて複雑)のにも表れているのかも?
この大快楽の域で、イエスの十字架の最後や、ステパノの殉教したんだろうなあ・・て思う事があるなあ・・・・w
ハイ、大快楽の域は・・・愛の大快楽です・・・魂が溶けるぐらい甘い、
旧約の雅歌の気分が・・・・・w理解できるwww
だいぶいっちゃってますねw
でも実は私も救われた直後はそうだったなー。ラブソングが急に好きになったりして。
熱いか冷たいかどちらかであれっていうみことばを真に受けて突っ走ってた時期もあったなぁ。(遠い目)
今はただただ雅歌はキモいですw
そもそも褒め言葉かよくわからない表現もいっぱいあるし。
笑ってしまうこともありますw
結局私は中庸が好きなんだと気づきました。
あの熱さ冷たさは砂漠の民の者だと思います。
ユダヤ人を見ていると、聖書の神はこの人たちのものなんだなぁと思います。
私は所詮接ぎ木された者で異邦人なんだなと。
床に落ちてるパンくずだけでは生きられません。
12年前の話です、
ま、体調不良でやる事無かった時期なんで、キリスト教散歩というところです。
昔も今も仏教が中心だけどね。
信仰的霊的突撃殉教ノリかもな。
俺は苦難を耐えるというのは・・・・
砂漠の荒れ野をモーゼに従い歩き、生きている間に約束の地にたどりつけない苦難とか・・・w
> あの熱さ冷たさは
は必要なのかもしれないなあ・・・・。
福祉事業している牧師の世話のしている人達の中では、確かに日本の風土文化に合わない精神状態が異邦人の人達がいて・・・。
そういう場合は、やはり、今の時点で奴隷か、砂漠か・・・・
エジプトの奴隷の身分から救われなければ・・という感じがしないでもない。
合理主義精神の俺は、奴隷?だなんて、と言える余裕はあるけど・・。
クリスチャンは他人に厳しく自分に甘い
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1378737771/
ここは猛烈なアンチが多そうだね。
73さんがモーレツなアンチで煽っているタイプ?
にしては、ただの煽りだとは思えないんだよね。」筋が取っているからなあ・・・。
世俗化が進んだとはいえ、欧米はキリスト教徒が多いので、日本人一般よりも
欧米に親近感を抱くようになる。有る部分でそれは当然の成り行きでもあるのだが、
そのことが原因となって日本社会での孤立感が高まり、結果、信仰が先鋭化してしまう、
といったこともありえる。
俺は福音派だけど、福音派には馴染めないながらも
適当に距離を置きながらつきあってるよ。
福音派を辞めたとしても、教会生活は続けるだろうし、
特段辞めるような理由もないから福音派に籍は置いてる。
神は信じる信じないを超えて、空気のようにあって当然と感じてるし
信仰に躓くというレベルは越えてしまったな。
その子も福音派に染まるでもなく、神の存在に対しては
忠実だけど、現世の教会社会には一定の距離を置いてる感じ。
冷めてるんじゃなくて、バランスを取ってるんだ。
クリスチャンコミュニティの中でもこうしたバランスの取れた
人間は貴重だし、そうしたところに魅かれて僕は結婚すると思う。
ようになったと思うけど、なんだか一般社会の人より教会の人の
ほうが冷たいな。
俺は人間関係を期待して教会に行ってるわけじゃないから良いけど
クリスチャンじゃなきゃ付き合っていないような人間が多い。
なんだか視点が独特で、独善で、自分は正しいことをやってるつもり
だろうけど、結局愛してるのは自分自身でしかないのな。
そーゆーことが概して牧師にも起こってたりする。
そんな絶望的な教会になんで俺がいるかって?
別に離れる理由がないし、多分神が俺を遣わしてるからなんだろう。
私は正直言って実感としてあまりよくわからないけど、でもそれによって苦しい思いを強いられてきた人たちもいると思うので、
自分が置かれた立場によってその重みは違うと思う。
>>83さんの場合は、隠れキリシタンではなく、一人クリスチャンといったところでは?
あまりにも酷い人生の荒れ野に居る人には、これでも信じれば希望だろうね。
牧師になりたいんですが神学校通ったほうがいいんですかね?
一般的には自分が所属している教会の養成機関に通うものだと思いますよ
自分は、終わるとすぐにひっそりと帰る。あーさみしい。つまらない。
ほうが冷たいな。
俺は人間関係を期待して教会に行ってるわけじゃないから良いけど
クリスチャンじゃなきゃ付き合っていないような人間が多い。
なんだか視点が独特で、独善で、自分は正しいことをやってるつもり
83さん、ようこそ、意味不明な不信仰者タイプの者です。
教会の牧師の力量、器、霊性が左右するんだろうね。
たまに通う、優れた協会設立の牧師時代の信徒は人間出来ていそうだ、
現牧師は伝道力なさそうのボーダーライン、どっちに転ぶか微妙の牧師。だな
牧師の力量は重要だね。
牧師は本来孤独な仕事だと思うんだが、それでも尚牧師という職を
目指すにはやはり独り残されても神の使命を全うする気概が欲しい。
単に信徒の上でお山の大将やってる牧師は最低だね。
集団心理を煽って、信仰があればなんでもできるとかわけわからん
ことほざく牧師はまず胡散臭い。あと牧会運営にしろ教会堂建設にしろ
結局金が絡むと世俗的になる牧師。
あーつまらんね。
それでも、不完全な形で教会というベンチマークが地上にあることは
意義があると思う。そんな思いで僕はクリスチャンをやってますわ。
>>87
牧師の力量は重要だね。
牧師の場合
キリスト教は信仰にその人の人格が変わって行けるか、て言うのが重要なのかもと思いつつも、
その修道プロセスがどれだけ、できているか?という気がする、
教義的にできてそうな雰囲気があるなあと思うのは、
FEBCで最近流れるのが多いイエズス会、日本ホーりネス教団(東京聖書学院)小林和夫牧師あたりかもなあ。
不信仰者なのに、俺はw一応オレはスレタイに該当する人物ではない、入信した事が無い。
別に離れる理由がないし、多分神が俺を遣わしてるからなんだろう。
うん、そういうの理解できる、オレ不信仰者の分際でw
>牧師になりたいんですが神学校通ったほうがいいんですかね?
色々流派があるらしいね、危険なカルト色の教会を判別できないとおかしな神学校で後地獄の苦労するかも。
86 :神も仏も名無しさん:2014/05/31(土) 15:08:34.71 ID:0VTVXnim
教会内で、わいわい楽しくやっている人々がうらやましい。
自分は、終わるとすぐにひっそりと帰る。あーさみしい。つまらない。
つらいの、神様と対話と霊的慰めと導きがあればいいのにね、オレ不信仰者の分際で語るw
BBNは福音派
メインラインやリベラルとは一線を画する
信仰的には「濃い」め
通ってるプロテスタント教会の牧師の人に聞いてみます
スレタイをまったく無視して自分が聞きたいことだけ聞いてる牧師希望さんは、神学校に行く前に学ぶことがあるかも知れないね。
ただ、社会で生きていけない教会ニートの逃げ場にもなってて
社会に出られないから牧師になるって人間は本当に悲惨だと思う。
社会に出て泥まみれになって、自分の本能と理性と信仰のギャップに
苦しんだ末に、牧師の道を選ぶなら素晴らしい牧会者になれるかもね。
教会にはニートも多いんだが、中途半端な逃げ場にせずしっかり世俗と
リンクしてほしいね。
教会の中だけで通じるローカルルールの中でヘラヘラした雰囲気は
未だに好きになれないから俺も極力一人でいるよ。
稼ぎはあるほうなのであまり気にはしてない。
そして俺は学生の頃から十一献金してきながら経済的には恵まれているので
むしろ増えてはいる。そして人生を振り返ってもまずまず成功した部類
だし、この点は神に感謝せざるを得ない。だから表だって十一を否定
しないけど、やっぱり苦しい人もいるわけだから目安にはしても
規定にはしてほしくないというのが本音。
もし、それができる人は元々救われてないってことですよ。
私もクリスチャンの端くれですけど、神のことを一日たり
とも忘れたことないです。
あと、俺は福音派で十一献金もしてるけど金にあまり執着しないし
やっぱり、禁酒、禁煙あったりしますか?その教会。
97,98さん、ありがとうございます。
100 :神も仏も名無しさん:2014/05/31(土) 23:44:56.63 ID:cLdkyt1z
そもそもクリスチャンって辞めれるものなの?
もし、それができる人は元々救われてないってことですよ。
牧師の器量が悪い場合、ありうるでしょう。
その説によれば、牧師も救われていないという可能性が・・・・。
うん。表向きは禁酒禁煙だね。だけど俺は酒飲むよ。
確かにコントロールも難しいし、飲まなくていいならそれに
こしたことないけど、付き合い上必要もあるからなぁ・・・
>>105
罪の概念なぁ・・・日本は穢れ思想で対象がもっとファンタジーなんだけど
キリスト教の場合はイエスが明確だからね。でも、神‐人の二極間で
明確に分かつものが罪で、これがわかりやすいんだな。
道徳に反するもの、教義に反するもの、だけじゃなくもっと根本的に
神と人は違うという原罪みたいなもん。ここらへんは佛教の言うところの
解脱に至る障害=罪みたいなもんで共通してると思うがね。
牧師の良し悪しは確かにあると思う。それは同意です。
不幸にも、牧師や教会が原因で教会を離れることがあっ
ても、イエスキリストを信じる信仰があるならば、心に
どうにも解決できない、疼きがあるはずです。人の咎の
ために主を忘れて、信仰を持つ以前の生活に戻るなどあ
り得ないと思います。もし、教会を離れた人で疼きを経
験してるのならば、その人は救われてるよ。
それは、神がその人の手をしっかり握っていてくれるか
ら。
同性愛者や性同一性障害の人たちは本当に行き場がないよね。
私が前いた教会でもゲイをカミングアウトして、牧師にサポートできないって言われて出されちゃった人がいるな。
結局その人はクリスチャンやめちゃったし。
段々修行みたいになっていって、互いにパリサイ化して裁きあったり、
自分はまだ信仰が足りないと言って悩んだりもしがち。
結果としてずっと「足りてない」という気持ちがあり、満たしが実感できなかったりするし。
イエスを信じてただの罪人から聖徒になったが、まだ罪を犯すので、この世では罪を犯す聖徒であり、完全な聖徒になるのは御国に行ってからという、
ダブスタというか中途半端というかでよくわからない。
この辺は宗派によって(もしくは教会によって)違いはありそうだけど、
でも色んなところでよくこの話を聞いて混乱した。
段々修行みたいになっていって、互いにパリサイ化して裁きあったり、
日本ホーりネス教団(東京聖書学院)はFEBCにでるぐらい福音派意識が薄いし、エキュ意識がありそうです、
戦前の弾圧を超えた筋金入りらしいですね。
105さんへ
>キリスト教の難しいところは、私たちは罪を贖われてきよめられ、新しく義とされたが、罪を犯す者でもあるという概念。
イエスを信じてただの罪人から聖徒になったが、まだ罪を犯すので、この世では罪を犯す聖徒であり、完全な聖徒になるのは御国に行ってからという、
ダブスタというか中途半端というかでよくわからない。
絶望の中の希望みたいな意味なんでしょうね、恐らく。
俺的には、メンドクサイ立場だなあ、と思う。
タダのサービスを受ける至福、物事の道理の理解の弱い人の為に=私たちは罪を贖われてきよめられ、新しく義
至福を受け精神的に良くはなっても、それほど物事の道理の理解の弱い人状態は変わらない=罪を犯す者でもある
という感じだろうなあ。
牧師がノン気だったらゲイであることはカミングアウトしないほうがいいと思う。
性的指向はプライバシーだからそんなことまで表に出す必要はない。
ゲイの牧師がいる教会に行けばゲイの人や性同一性障害の人はなんとかやっていけただろう。
牧師がノン気だったらゲイであることはカミングアウトしないほうがいいと思う。
性的指向はプライバシーだからそんなことまで表に出す必要はない。
聖書の同性愛は罪だと解釈する様な聖句があるから悩んでカミングアウトするんだろうなあ。
FEBCのスタンスは、それが罪であってもキリストの十字架で救われて、みたいな解釈していたな。
という事でオレ信者じゃない。
スマホとかw
礼拝中にスマホ?ww
韓国とペンテコステが一緒になったって強烈の極みだわw
小山 芳枝 (こやま よしえ)
10歳の時にキリストを知り、救われる。
学生運動の挫折後、聖霊のバプテスマを受け
異言か・・・・
教義を見ると霊力の至福で万能的気分主義ぽいな。あと律法的服従しないと地獄に落ちるとか
タバコ酒やると地獄に落ちるとか。
人間の精神面の成長を探究しなさそうだよな。
そういう牧師も何人かいるあもしれんけどな。
単立ペンテコステ・フェローシップとあるから。
チョ―ヨンギを支持している従属でない教会もあるらしいけど、ペンテコステ派に。
聖霊の至福の教派別味わい探究とか10年前にやったなあw
単立ペンテコステ・フェローシップ
とあるな。
http://www.voiceblog.jp/gospelpod/
一応説教が聴ける岐阜純福音教会
聖霊様の恵み・・・。か。
今の処、説教は、おかしいわけでもないか・・・・
律法的なものより自由とか言っている、
愛の実践の有無の問題なのかな?
やはり禁煙のかな?
元バプテスト系ペンテコステぽいか?という感じが・・・・。
http://www.tpkf.org/
TPKF(単立ペンテコステ教会フェローシップ)
http://www.tpkf.org/about.php
単立ペンテコステ教会フェロシップ(TPKF)
1.沿革
近代における聖霊傾注は1901年トペカ、1904年ウエールズとインド、1906年アズサ通りと続く。
1906年ノルウエーのT・Bバラット(メソジスト)はアメリカに渡り、アズサ通りで聖霊のバプテスマを受けた人々と交わりを持ち同じ祝福にあずかる。
彼の聖霊経験はホットニュースとして母国に伝わり、ノルウエー中が彼の帰りを待つ。やがて母国に帰った彼を通してその火はノルウエーから北欧中に広がり、
それが今日のTPKFのバックボーンとなっていく。
ノルウエーではリバイバルの3年目1908年に2人の婦人がインドへ行くためにA・Bシンプソンの神学校で宣教師の訓練を受けている。
1930年代までには100人の宣教師が起こされている。国内でも2年間で32の教会が設立されている。
1886年―スウエーデンのベルムランドで、1894年ダーラムで異言を語った記録が残っている。
1902年に聖霊のバプテスマをすでに経験していたスウエーデンのレビ・ペトロス(バプテスト)はそれが何であるかを知らなかったのであるが、
1906年に帰国したT・Bバラットをオスロに訪ね、そこで按手を受け、聖霊の川が激しく流れ出し、かつての経験が聖霊のバプテスマであることを知る。
ゲイもパーソナリティだ。他人に迷惑かけなきゃいいとは思うがな。
でも俺に迫ってきたら多分殴るよ。
>キリスト教の場合はイエスが明確だからね。でも、神‐人の二極間で
明確に分かつものが罪で、これがわかりやすいんだな。
道徳に反するもの、教義に反するもの、だけじゃなくもっと根本的に
神と人は違うという原罪みたいなもん。
原罪を中心の布教なんでしょうね、やはり・・・
そういう場合、伝道は難しいんじゃないかと。
精神的救いが必要だから、罪があるという風に俺はみてしまう、ま不信仰者の立場だから、
合理主義解釈しちゃうな。
精神的救いを提示するから、伝道が上手くいくというとか。
ま、社会福祉事業やっている牧師は、精神的、生活的救いを軸にはやっているな、
むろん原罪しそうでしょうけれども。
俺は別に伝道する気ないからね。確かに難しいと思う。
神と人との関係、というか人間の存在理由についてとことん自分で
問答していって到達したところだから、自分から求めるような
人じゃなきゃ理解できないだろうし。
『叩けさらば開かれん、求めよさらば与えられん』
ってほんとだぜw
パウロも言うように伝道の愚かさって奴で、知りたい人間は
神がその都度、ジャストタイミングで答えを与えてくれる。
でも世の中そんな奇特な人ばかりじゃないから、心の平安を
求めた祈りだったり、信仰だったりでももちろんOKだと思う。
まぁ、俺はあほみたいにでんどーでんどー言いたくないので
隠れキリシタンですw
プロテスタントは一般的に隠れキリシタンや転びキリシタンが置かれた厳しい状況を良く知らないので
冗談のつもりで気軽に隠れキリシタンという言葉を使うのでしょうが…
隠れキリシタンという言葉は時代的なもので非常に重いです。
キリシタン史 禁教・潜伏時代
http://www.collegium.or.jp/~take/christi/rekisi4.html
あっそ、いちいち言葉じり捕まえて絡むなよ。隠れキリシタンは
もはや市民権も得ていて比喩も沢山使われてるわ。
つまらん奴らだね。
>>137
いんや、ただのサラリーマンだよ。
丸の内でバリバリ働いてますわw
私をつまらん奴だと思うのは構わない
隠れキリシタンに対してはもう少し敬意を持ってくれ。
先祖が隠れキリシタンとして迫害され拷問を受けた人たちの子孫もいる。
信仰の自由を得てもカトリックに復帰せず隠れキリシタンに留まったまま
五島や平戸に住んでいた人たちが過疎化で信仰の継承が難しくなり
やむを得ず解散式をしているのが現状。
神と俺の関係‐人間の存在意義についてそれこそ
気が狂う一歩手前までとこどん追及した。
原罪、三位一体、贖罪等々あるわけだけど字義通りに
解釈するならどうしても無理も出てくるし、当時のニケア公会議で
異端との対決結果生まれたようなもので、言葉にした瞬間解釈が
分かれるような紛い物になっちまうんだな。
多分、言ってることは釈尊やその他宗教でもそう変わらんのよ。
っで、俺が多元主義かと言えばそうじゃないし
ユニバーサリズムかと言えば、それも違う。
言葉にした瞬間にそれは別物になっちまうからw
だから俺は伝道の愚かしさ。
求めるものには与えるけどね。
アウグスチヌスはイエスキリストと聖霊は父なる神より下の
段階の存在であると、後のトレドー会議で説いたが、あなた
は牧師か神学校の出身ですか?
アリストテレスのロゴスとイエスをかけたのだろうけど
ロゴスとは真理であり、人はその真理を言葉で表そうと
した瞬間に真理とは別物になってしまう。
真理は真理であって、イエスは真理そのもの=普遍の言葉
なのだな。
アウグスティヌスはこの事実に気づいていたけど、
カトリックは宗教改革でルターにやられるまでプラトニズムで
やりたい放題やっちまってた。
ここら辺、やっぱ人間組織なんていずこも糞だなとは思うw
しかし不完全な糞ながらもベンチマークとして存在することに
人間が人間たらしめる意義があるのだと思う。
おもしろいね人間は。
ヨハネの「はじめに言葉があった」は、確かに言葉=ロゴス=イエスだけど、
言い替えれば、「はじめにイエスがあった」で、イエスが神の世界を言葉にしたということであり、
神の世界を言葉にすると違うものになるということではないと思うんだけど…。
こだわって結局分裂させてる姿を神はどう見てるんだろうな。
上にも書いたが真理を言葉で定義などできん。
できると言うならそいつは詐欺師だ。
まぁ、キリスト教にもたくさん詐欺師はいるけどな。
だからイエスは論争よりも祈りを薦めた。
その教えを真っ向から否定してるのが今のキリスト教だよ。
とんだお笑いだな。
どんな祈りをあなたはしてますか?
『主にあるように。』
まぁほとんどこんな祈りだよ。
自分にあるようにじゃなくて主にあるように。
ビジネスシーンではどうしても自我が出やすいがそんな
ときこそさっと祈り、静まるようにしてる。
あとは瞑想だな。
そんなダラダラ言葉は使いまわさない。
なるほど
普段のシーンでもちゃんと活かせてるわけだ
瞑想ってどんなことしてる?
自分は最近全然やってないわ
もちろん普段の生活の中で自分を観察して戒め続けることはずっとやってるけどね
瞑想って結構いろいろあって、ヨガ、ヴィパッサナー等伝統的なもの
からカトリックもその点は進んでるほうだけど
俺はまぁ自己流ですw
大体座禅組んで、極力脱力、何も考えない無思考状態に陥って
ひたすら自分を無にする。すると物体から霊体の世界に入るような
感覚に陥って、自分のしがらみや執着、我欲が嘘のように晴れている。
下手な定型文の祈りよりはるかに効くぜ。
ヴィパッサナーか
サティを日常生活の中で入れてくのいいよね
あと、杞憂だと思うけど1点気になったことが
腐敗したクリスチャンのことばかり気にして自分を疎かにすることだけは気をつけてね
仕事でも、新しい製品やサービスを作れない企業体質とばかり戦ってて、仲間や組織のグチしか言えず、じゃあ環境が良くなった時にあなたは何を作るの?と聞かれたら何も答えられない人ってよくいるので
そうならないようにお互い気をつけよう、となぜか感じました
おやすみなさい
とか言ってるバカより、善良で隣人のために祈るムスリムのほうが
はるかに素晴らしいと思うわけだ。
クリスチャン共の欺瞞には本当に虫唾が走るよ。
とまぁ俺もクリスチャンなので人のこと言えんがなw
失敗するパターンは大体いきなり坐禅から入って無心になろうとする
最初はまず軽い断食をしながらよく歩いて
自分の心を観察してみることをオススメするよ
幕末から明治初期にかけての浦上四番崩れでご先祖は津和野に流罪となり
水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、等あらゆる拷問を受けた。
教会の人間関係が面倒だからと一線を引いて、自分の世界だけで信仰を持つのはある意味楽だった。
でもそれは本当に神が喜ぶことだろうかと思ったら答えはノーだった。
兄弟姉妹を愛さない、大宣教命令を無視して自分だけの信仰とするのは、やっぱりみことばに反してると思った。
そして周り(ノンクリ)のクリスチャンなのに…という目に耐えられなかったということ、
結局は自分の未熟さと向き合うのが嫌で逃げたというお粗末な顛末。
何度か書いたけど、贖われた喜びが理解できなかったから。
悲しいかな、私は最初から救われれなかったんだと思う。
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